松田直樹、奇妙で成熟した関係を築いたトルシエの追悼「直樹さん、君は他の誰とも違った」
五輪予選で代表辞退、ドイツで言われた「この代表に選ばれたくない」
五輪代表の最初期のメンバーには入っていなかったけれど、すぐにチームの一部となった。プレーを見て、すぐに興味深いと思った。強烈なフィジカルを持ちながらも、明晰さも兼ね備えている。君を選ぶことは簡単な選択肢だった。
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1999年のカザフスタンとの五輪予選を前に、我々はドイツのシュヴァルツヴァルトでキャンプを行った。この時に、君は私に向かってこう言った。「この代表メンバーに選ばれたくないんだ」と。私は落胆したものだ。そして、心をかき乱された。
もちろん、私は君の選択を受け入れる以外になかった。だが、心の中では、そして、魂の部分では、君を選ばないということは不可能だった。代表辞退を受け入れざるを得なかったが、これは止むを得ないことだった。だから、私もポジティブに反応する以外になかった。
「君の決断は理解した。だが、決断を翻すことを期待している」と君には伝えたものだ。
代表辞退という行為に、個人的には否定的な感覚はなかった。とにかく、私は君の個性を気に入っていた。日本を愛しているにも関わらず、代表入りを拒否する。その事実に関して、個性の表出という一点で私は嬉しかった。イラつき、落胆もしたが、それは君の個性に対してではない。
この男は他とは違うと悟った瞬間でもあった。五輪代表とA代表で、君は私にとってスペシャルな選手だった。我々の関係はあまりに奇妙だったと思う。身近な存在になれたが、代表辞退があった後に特別な関係になったのだから。この男を諦めることはできないとも感じた。
代表という集団には様々な個性が必要だ。直樹さんのような反応を私は愛した。私の求める組織とは活発で躍動感を意味しており、油断や停滞は存在しない。他のメンバーは当時あまりに若く、若手は私を少し恐れていたかもしれない。あるいは、あまりに敬意を払っていたのだろうか。
しかし、君は全くお構いなしだった。ただ、君に対するマネジメントは難しくなかった。そして、楽しみでもあった。我々の関係性は成熟した大人の関係だったと思う。ヨーロッパ的な関係だ。
代表監督の初期、私と他の選手の関係は教師と生徒だった。私は3-5-2システムを植え付ける過程において、選手に自由を与えなかった。私はすべきことを伝え、交響楽団の指揮者のような役割。選手を導き、何をすべきか、どう実践すべきかを伝えた。
監督が教師であるなら、監督は選手を大人としてみなすことはない。眼に映る姿は生徒でしかない。だが、直樹さん、私たちの関係性はかなり熟成したものだったと言える。
余裕がある。流動的で、尊敬もある。君との間で揉めごとは一切思い出せない。私が頼りとし、事象を共有できる人間でもあり、アドバイスを求めることもできる存在だった。常に、君には信頼を寄せていたんだ。