松田直樹十周忌 「明日、みんな金髪で集合な」で人生初めて髪を染めた中村俊輔の追憶
かつて日本サッカー界に輝く唯一無二のDFがいた。松田直樹。横浜F・マリノスで背番号3を着け、日本人離れした身体能力で数多のFWを封じ、2002年ワールドカップ(W杯)日韓大会で日本代表の16強に貢献。プレーはもちろん、歯に衣着せぬ言動とカリスマ性で選手、ファンに愛された。しかし、2011年の夏、所属していた松本山雅の練習中に急性心筋梗塞で倒れ、8月4日、帰らぬ人に。34歳の若さだった。早すぎる別れから、もう10年――。
十周忌連載「松田直樹を忘れない 天国の背番号3への手紙」1通目 横浜FC・MF中村俊輔
かつて日本サッカー界に輝く唯一無二のDFがいた。松田直樹。横浜F・マリノスで背番号3を着け、日本人離れした身体能力で数多のFWを封じ、2002年ワールドカップ(W杯)日韓大会で日本代表の16強に貢献。プレーはもちろん、歯に衣着せぬ言動とカリスマ性で選手、ファンに愛された。しかし、2011年の夏、所属していた松本山雅の練習中に急性心筋梗塞で倒れ、8月4日、帰らぬ人に。34歳の若さだった。早すぎる別れから、もう10年――。
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「THE ANSWER」は松田さんの十周忌に合わせた連載「松田直樹を忘れない 天国の背番号3への手紙」をスタート。その功績と人柄を語り継ぐため、生前にゆかりがあった選手・関係者らが登場し、命日となる8月4日まで連日、想いを明かす。第1回は元日本代表の横浜FC・MF中村俊輔。横浜マリノス(現横浜F・マリノス)入団以来、ともに5年半プレーし、日本代表10番を背負った男が語る松田さんの記憶とは。(取材・構成=藤井 雅彦)
◇ ◇ ◇
中村俊輔が横浜マリノスに加入したのは1997年のこと。
その前年の1996年にはアトランタ五輪が行われ、川口能活や松田直樹らを擁する日本が優勝候補のブラジルを破って「マイアミの奇跡」を成し遂げた。
桐光学園を高校サッカー選手権準優勝に導くなど、その名を全国に轟かせていた中村だが、住む世界がまったく違う先輩たちとすぐに対等な関係を築けるはずがなかった。
「僕の1つ上の年齢の選手がいなくて、2つ上の先輩がマツさん、さらにその1つ上に川口能活さんもいました。比較的身近なはずの存在が日本代表や五輪代表といった肩書きを持っていて、自分にとっては雲の上の人たちばかり。だからプロになってすぐマツさんと頻繁にコミュニケーションを取っていた記憶はありません」
それでも中村は実力と才能を見込まれ、ルーキーイヤーから名門クラブの一員としてピッチに立つ。
さらなるレベルアップを求めてパーソナルトレーナーの門を叩いた。
「能活さんの紹介でパーソナルトレーナーに指導を受けるようになって、そこにマツさんもいました。僕自身はプロ2年目にレギュラーとして試合に出る機会が増えて、その頃からマツさんに声をかけてもらえるようになって。3年目に入った頃にはプライベートでも食事に連れて行ってもらい、いろいろなことを教わりました」
酒を飲まない中村は運転席に、そして松田直樹は助手席にドカッと腰掛ける。
横浜から都内へと車を走らせ、今まで知らなかった世界へ飛び込んでいく。
「マツさんに『もっと世界を広げたほうがいいぞ』と言われたことを覚えています。当時の僕はとにかくサッカーのことしか考えていなくて、家とグラウンドの行き来しかしていなかった。マツさんからすると、つまらない人間に見えたのかもしれない。僕にサッカー以外の世界を見せて、教えてくれたのはマツさんです。その経験によって社交性を学ぶことができて、人間としての深さなどを意識できるようになりました。それにマツさんが檄を飛ばせばチームの雰囲気が引き締まるし、ピッチ内外で存在感は絶大でした」