1964年東京五輪の最終走者知ってる? 政治にも翻弄された聖火リレーの歴史【前編】
東京オリンピックは23日に開会式を迎える。大きな見どころの1つは聖火リレーの最終走者。過去の大会ではどんな背景を持つ人物が務めたのか。聖火リレーの歴史を2回に渡って振り返る。(文・江頭満正)
聖火リレー最終ランナーと世界の情勢
東京オリンピックは23日に開会式を迎える。大きな見どころの1つは聖火リレーの最終走者。過去の大会ではどんな背景を持つ人物が務めたのか。聖火リレーの歴史を2回に渡って振り返る。(文・江頭満正)
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オリンピック憲章の第1章13項には、オリンピック聖火とオリンピック・トーチという項目があり、オリンピックの一部となった聖火リレーだが、かのクーベルタン男爵が尽力し、近代オリンピック第1回として開催された1896年にアテネ(ギリシャ)大会には、聖火リレーは存在していなかった。
聖火は、1928年アムステルダムオリンピックで、古代オリンピックでの伝承をもとに再開されている。その伝承とは「ギリシア神話に登場するプロメーテウスがゼウスの元から火を盗んで人類に伝えたことを記念して、古代オリンピックの開催期間中にともされていた」というものだ。
この聖火をオリンピア(ギリシャ)で点火した後に開催地までリレーで運ぶという形式になったのは1936年ベルリンオリンピックからだ。
ただ、この近代オリンピック最初の聖火リレーは、ナチスが侵略をするための下見だった。という説が存在する。
ヒットラーを総統とするナチスドイツは1939年9月1日にポーランドに侵攻する。この時ナチスが選んだ道は聖火リレーが通った道と、かなりの部分で重なるからだ。1936年のオリンピック開催時に、すでにナチスドイツは、戦争が始まった場合に備え、戦車が通過可能な道や、橋、都市の構造を正確に把握することに、聖火リレーを使ったのではないかという疑念だ。当時のナチスドイツなら、スパイなどで情報の収集は容易だったと思われるが、聖火リレーという大義のもと、通過する都市の行政から正確な地図を受取り、詳細を聞くことが出来たのだ。その時得られた情報を活用したと考えられている。
第二次世界大戦終結後、12年ぶりにロンドンでオリンピックが開催された。この時ベルリンで印象深かった聖火リレーも実施され、1951年に「オリンピック憲章」に聖火リレーが加えられ、オリンピックに不可欠なものとなった。
1964年、前回の東京オリンピックの開会式で、国立競技場の聖火台に火をともしたのは、1945年8月6日に生まれた、当時19歳の早稲田大学陸上部の坂井義則さんだった。
1945年8月6日は、広島への原爆投下の日だ。坂井さんは原爆投下の1時間半前に、震源地から70キロ以上離れた広島県三次市で誕生している。日本は坂井さんが聖火の最終ランナーとして、世界中に中継されることで、日本の戦後は終わり大きな成長を遂げたこと、そして二度と原爆を人類に対して使用してはいけない。というメッセージを発信した。オリンピックの開会式で最も象徴的なシーンに、最終ランナーに起用する人物のバックグラウンドからメッセージを発信した初めての事例となった。
その後、オリンピックは平和の祭典から程遠くなって行く。東西冷戦の中、政治に翻弄されることが多くなっていくのだ。
1968年のメキシコシティーオリンピックでは、黒人差別政策(アパルトヘイト)を行っていた南アフリカが参加するなら、オリンピックをボイコットするという国が55か国を超え、IOCは南アフリカの参加を認めないこととし、ボイコットは回避された。