Jクラブが世界を目指す意義 「幻のレアル挑戦」が生み出した史上最高のサッカー
「ジュビロが歴史上で最も素晴らしいサッカーを見せたのは、レアル挑戦が決まっていた2001年だった」――鈴木政一(元ジュビロ磐田監督)
磐田の黄金期を支えた監督、選手が証言 “打倒レアル”で取り組んだ新戦術
「ジュビロが歴史上で最も素晴らしいサッカーを見せたのは、レアル挑戦が決まっていた2001年だった」――鈴木政一(元ジュビロ磐田監督)
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日本のクラブで初めて世界的な名門クラブであるレアル・マドリード(スペイン)に、公式戦での挑戦権を獲得したのは、ジュビロ磐田だった。クラブワールドカップの前身として、FIFA(国際サッカー連盟)は2000年に第1回世界クラブ選手権をブラジルのリオデジャネイロで開催。第2回大会は翌年にマドリード開催が決まり、1999年のアジアクラブ選手権(現・AFCチャンピオンズリーグ)で優勝した磐田がアジア王者として出場することになっていた。
当時のレアル・マドリードは、ジネディーヌ・ジダン、ラウール・ゴンザレス、ロベルト・カルロスら錚々たるメンバーを揃え「銀河系」と別格視されていた。磐田を指揮する鈴木政一監督は、何度も繰り返し映像を見て、レアル対策を考えた。
「少なくともレアルには、フィニッシュまでに5~6本のパスをつながせる必要がある。だからキャンプから、互いの距離を保ちながら前線から追い込むトレーニングに入りました。大半のメニューは守備に費やしました。攻撃は、もともと持っていたからです」
だがシーズンが始まっても、新戦術は機能しなかった。チームの核を成していた名波浩(現・磐田監督)が語った。
「ボールを追うゾーンが広過ぎて、12人いてもしんどい印象でした」
チーム内では「もうやめようよ、このサッカー」という声が大勢を占めていた。