障がい者と本気で戦い、変わった人生観 元JリーグGKブラインドサッカー挑戦の告白
「どこかで健常者と障がい者に“隔たり”がある。僕もそう思っていた一人だった」
だからこそ、ブラインドサッカーに挑戦して良かったことを問うと「価値観が変わったこと」を挙げた。
「どこかで健常者と障がい者に“隔たり”があるじゃないですか。僕も彼らと出会わなければ、そう思っていた一人だったと思う。目が見えない人も、他の障がいがある人も、それが良いか悪いかという話でもないし、かといって目が見える人、耳が聞こえる人、何も障がいがない人がすごく恵まれているかというと、そういうことでもない。彼らも普通に壁にぶち当たるし、心が折れることもあるし、怒ったりも悲しんだりもする。すべては、目が見えないから彼らにはないわけでないということ。
目が見えないということだけで、生きる世界は僕らと何も変わらない。僕らはその中でサッカーをはじめ、いろんなスポーツがある。でも、彼らは目が見えないからルール上、ブラインドサッカーという形になるだけ。そうやって、実際に障がい者スポーツを経験してみると、まだまだ自分が知らない世界は多いと感じた。いろんなことに気づかされ、考えさせられ、自分は学べるし、大きくなれる。人間形成において、この年齢になっても、まだ成長できると感じたことが大きな財産になった」
健常者と障がい者。そのラベリングにより、無意識のうちに“隔たり”が生まれ、両者の距離を遠ざけている。しかし、スポーツというツールで、ともに目標を共有したから「変わらない世界」があると実感した。人生において、大切な気づきだった。
代表でプレーした時、同僚の川村怜選手に言われた言葉が忘れられないという。「目が見えないけれど、ブラインドサッカーのピッチでプレーしている時が一番、自分に自信が持てる。あのピッチは僕にとっての自由なんだ」。なるほど、と思わされた。「自分たちの世界でしか考えの物差しを持っていなかったと、新しい価値観に気づかされた」。榎本はそう懐かしそうに言って、笑った。
かけがえのない経験を得ることができた挑戦。榎本は昨夏をもってブラインドサッカーの代表から退いた。FC東京普及部のコーチ業との活動から参加が限定的になることから、東京パラリンピックメダル獲得の思いは仲間たちに託した。しかし、全力で駆け抜けた2年半、与えられた役割は全うした。もちろん、ブラインドサッカーとパラスポーツに対して、情熱が消えたわけではない。
「僕はブラインドサッカーだけが盛り上がってほしいわけではない」と断った上で、「こういう世界で自分を高めようと努力して戦っている人がたくさんいることを知ってほしい。知ること自体が彼らにとってのエールになると思うから」と言う。
その上で、自身が変わった障がい者に対する意識と思いを明かした。
「例えば、今までも周りを見て歩いているつもりだったけど、ブラインドサッカーをやると、街中で白杖(視覚障がい者用の杖)を持っている人がいかに多いかと気づかされた。その中には困っていそうな人もいるし、何事もないように仕事をしている人もいるけれど、意識すると、そういう人たちが実はすごく多い。耳が聞こえない人も車いすに乗っている人もそう。障がいがあるだけで彼らも同じ世界を生きて、いろんな競技に挑戦している人もいて、スポーツと共存している。そのことを知ってほしい」
現在はサッカースクールで小学生に指導する立場。ブラインドサッカーに挑戦したからわかったこともある。「言葉の質」も、その一つ。子供は10人いれば、10人の性格がある。大切なことは「自分がどれだけ、子供に伝わる言葉の引き出しを持っているか」という。
「それはブラインドサッカーをやることで、視覚のない選手たちがどうすれば動いてくれるか、どの言葉をどのタイミングで伝えると理解されやすいのか、『今の言葉で理解できた?』『タイミングはどうだった?』と意思疎通しながら、考えさせられた部分。同じように、子供たちに『この言い方は響かなかったな』と意識が向いて、まだまだ足りない部分があると気づかされている」