【今、伝えたいこと】「最後の夏がなくなった中高生へ」 14歳の金メダリスト・岩崎恭子のエール
「金メダルなんて獲らなければ良かった」と思った日
静岡・沼津に生まれた3姉妹の次女は、5歳から地元のスイミングスクールで水泳を始めた。
「周りよりも速く泳げることが楽しくて」
天賦の才を持った小さなスイマーは、すぐにプールの虜になった。多感な小学生から中学生にかけ、友達がしているような遊びの時間もすべて犠牲にして、練習に捧げた。キツイ時は1日、2日くらい「イヤだな」と幼心に思うこともある。「でも、練習をやめてまでそちら側に行きたいとは思えなかった」。だから、プールに毎日足が向いた。水泳があるから、自分が自分でいられた。
「楽しい」の延長線にオリンピックがあった。小6で平泳ぎの100メートル短水路学童日本記録を樹立し、中1で全日本中学大会100、200メートル2冠を達成。同じ年の日本選手権200メートル4位に食い込むと、翌年4月、バルセロナ五輪の選考会を兼ねた日本選手権で100、200メートルともに2位に入り、出場権を獲得した。そして、夏に迎えた五輪で、少女は歴史に名を刻むことになった。
7月27日。「決勝に残ること」が目標だったはずが、表彰台の真ん中で君が代を聞いていた。
200メートル予選で一気に自己記録を3秒30、当時の日本記録を2秒以上更新する日本記録を出し、全体2位で決勝進出。そして、決勝では大会前の持ちタイムで6秒の差があった世界記録保持者アニタ・ノール(米国)をゴール寸前で逆転し、世界を驚かせた。
その快挙は、あの名台詞とともに、一気に日本中を駆け巡った。
ただ、14歳にして付いた「五輪金メダリスト」の肩書きが、人生を大きく変えた。帰国するや、空港に多くの報道陣が待ち構え、日本中がフィーバーに沸いた。街を歩くと、どこに行っても視線を感じた。その“目”は好意的なものばかりではない。「14年しか生きていなくて何が分かる」。心ない中傷まで投げつけられた。まだ世間を知らない中学生にとって、心の重りになった。
当時の日々を「異常だった」と今、振り返る。
「とにかく、人からの注目度が変わりすぎてしまった。それに対してストレスも感じた。『私は私、分かってくれる人は分かってくれる』と思おうとしたけど、私のことをまるで知らないような人からも色々と言われることがあって。それを必要ないものとして捉えるのに時間がかかってしまった。『なんで私がこんな思いしなきゃいけないの』と家族に当たるようなこともありました」
自分を守るため、心を閉ざした。そして、いつしか思うようになった。
「金メダルなんて、獲らなければ良かった」
もちろん、口に出すことなんてできない。金メダルを獲りたい選手が世界にどれだけいるか、それくらいは理解している。だから、余計に苦しかった。そんな日々が中3から高1が終わるまで2年間続いた。そして、その期間は今もほとんど記憶がないという。極度に強いストレスにより過去を思い出せなくなる「解離性健忘症」と言われるもの。それほど、心を覆っていた闇は深かった。
光が差したのは高2で訪れた米国。13歳の時に日本代表として初めて行った海外合宿の地サンタクララのプールで再び泳いだ。その時に包まれた匂い、水の感触。すべてが懐かしくて、心が軽くなった。もう一度、あの時みたいに泳げばいいんだ、と――。
文字通り、水を得たスイマーは再び、競技と純粋に向き合うことができた。かつてのように練習に取り組む日々。そして、翌春の日本選手権では100、200メートルともに五輪出場権を掴み、18歳で2度目となる夢舞台をアトランタで迎えることができた。
これが、金メダリストの競技人生にとって特別なものになる。