日本スポーツ界で根強い“勝利至上主義” 育成年代で後を絶たない理不尽な指導の根底
育成年代における勝利の価値とは?
毎日のように練習する、練習時間が長い、1日に何試合もする、週末を潰してでも練習・試合をする、選手が怪我をしても気にかけない、レギュラーと補欠を完全に分ける、試合に帯同させているのに出さない、年間を通してほとんど休みがない、暴言・暴力も仕方なし、監督やコーチの言うことを聞くのが当然、そして「お前たちのことを思ってやっているんだぞ!」というセリフを言えばいいと思っている。
まともにそうしたストレスやプレッシャーを受けとめる選手は潰れていく。繊細で真面目な子供ほどそうやって傷つき、辞めていく。そうなりたくない子供たちは受け流す術を身につけていくので、感覚がどんどん鈍くなっていく。相対的なパワーバランスの中で、大会で勝つことはできるのかもしれない。でも、それを《勝利》と呼ぶことができるのだろうか?
子供たちを成長に導けず、チームとしての成長にも導けていないのに、育成年代における勝利の価値とはなんなのか?
「1人の選手として、そして1人の人間として、大人になった時にピッチ上でも、ピッチ外でも自分の頭で考え、自分の足で歩き、自分の手で切り開いていけるようになる」
自主性をもって、自律して、自立していく。それがない中で、一つの試合や大会に勝ったからと何になるだろう? それが大人になった時にどんな影響となるのだろう?
一握りの選手に頼って依存して戦うのではなく、チームに関わる選手がみんな十分なだけの出場機会を得て、成長機会を得て、彼らが成長していくことでチーム全体のレベルが上がっていき、そうするなかで練習のクオリティが上がり、それぞれの確かな発展へとつながっていく。
育成における取り組みの意義、育成における勝利の意味をも思慮せず、どうすればいいかとすら向き合っていないのだから、それはそもそも《勝利至上主義》ですらない。