圧倒的多数の「敗者」がサッカー文化を支える 日本の育成年代で選手に伝えるべき3つのバランス
キーワードの1つは「サッカーで『一生』飯が食えるか」
僕がマンチェスター・シティの試合を視察した際、近くの席には(アーリング・)ハーランドしか知らないというファンや、バイエルンの選手は誰も知らないと話している人がいた。PSGとインテルの試合では、大きな注目を集めていたネイマール(その後サウジアラビアのアル・ヒラルへ完全移籍)は出場すらしなかった。すると試合中に、スタンドからネイマールコールが起きたのだ。
ピッチ上の選手からすると、こうしたベンチに座る選手の出場を求める声がスタンドから起きることは屈辱でしかない。プレーしている選手たちのパフォーマンスが低調ならば、それも仕方ないが、決してそんな試合ではなかった。1人のサッカー人としてトップレベルの現場に関わり、一流選手とも接している僕としても、日本の試合でこうしたコールが起きたことは正直残念だった。プレーをしている選手たち、そしてサッカーというスポーツに対する「リスペクト」が浸透しているとは思えなかった。
もちろん、観客の気持ちもよく分かる。高額なチケットを買い、ネイマールらスター選手のプレーを観に来たのだから。だが同時に、それが日本のサッカー文化の現状であるとも感じた。
つまり、サッカー観戦に訪れる日本人の多くは、「サッカーを観に来ている」のではなく、「スター選手を観に来ている」のだ、と。もちろん、スター選手の素晴らしいプレーに驚いたり、楽しんだりするのもサッカー観戦の魅力だが、それでもこのスポーツの醍醐味はもっと違うところにあると僕は思っている。戦術的な部分だったり、ボールを持っていない選手同士の駆け引きだったり、そうしたピッチ全体で繰り広げられる“奥の深い”戦いを誰もが自然と楽しめるようになった時、ようやく「サッカー文化が日本に根付いた」と、言えるのかもしれない。
では、こうしたサッカー文化はどうやって作られていくのか。それを考える上で、僕はその1つのキーワードは「サッカーで『一生』飯が食えるか」だと思っている。
僕が子供の頃、日本のサッカーはまだアマチュア時代で、「サッカーでは『一生』飯が食えない」と言われていた。サッカーに一生関わりたいなら、現役を終えた後に指導者になるしかない。しかもそれで生活が成り立つ数も今より圧倒的に少なく、学校の先生になるしか道はないというような時代だった。
でも、今は違う。全国各地にプロサッカークラブが誕生し、さまざまな形でサッカーに関わって生活ができる時代になった。育成年代の指導者やクラブの運営スタッフ、選手を支えるエージェントやマネージメント担当者、メディア側の人間としてなど、30年以上前とは比べものにならないほど多くの人がサッカー界に関わっている。
僕のような50代以上の人は、多感な10代の時期を「サッカーでは『一生』飯が食えない」という環境の中で育ってきたが、おそらく今の中高生や30代前半までの人たちは、子供の頃から当たり前のようにJリーグが存在し、「サッカーで『一生』飯が食える」かもしれないという環境で成長してきた。プロ選手として大成功すれば一生サッカーに関わりながらお金も稼げるし、もし選手として大成できなくても、さまざまな形でサッカー界に関わることができる。サッカーへの覚悟が決めやすい時代になった、とも言えるだろう。
そんな現在でも、一部の成功するトップ選手を除いて、人生のある時期でサッカーに距離を置かざるを得ない。高校卒業のタイミングになれば、親も子供の進路が心配だ。人生におけるリスクがサッカーへの情熱を上回ってしまう。そして日本は受験などをはじめ、一度失敗をするとネガティブな印象がつきまとう傾向が未だに強い社会だ。リスクを負って勝負するより、失敗する怖さがつきまとう。成功者は称えられるが、リスクを負ってチャレンジして失敗し「敗者」のレッテルが張られると、次のチャレンジさえ否定的に捉えられてしまう。「ミスのスポーツ」と言われるサッカーからは真反対のマインドセットだ。