監督室のドアは「いつも全開」 慶応との差に危機感、早稲田率いた元Jリーガーの改革
監督室に「怖くて入れない」選手がたくさんいた
一方で伝統を引き継ぎながら、外池自身の現役時代と比べても歯がゆさを覚えた。
「理不尽を超えた先に社会で通用する力が養える。そんな時代でした。しかしこうして上意下達が厳然とした時代でも、自分たちで何かをやろうという空気はあり、競技力がすべてではないと矜持を持つ人間もいて、そういうメンバーこそがパワーを生み出していた。例えば試合に出ていない連中が『おまえ、プロに行くの? だったらそれ相応のことをやれよ』と平然と言い放つ。僕自身もそういう空気が好きで、むしろ就職組の人間的なパワーがチームという組織を支えていたと思うんです」
早大ア式蹴球部は来年の100周年に向けたプロジェクトを組み、外池もそのメンバーに選ばれていた。会合が開かれるごとに「早稲田は、このままでは難しい」と訴え続けると「だったらおまえがやれよ」と白羽の矢が立った。
「結果的には、自分で自分をプレゼンテーションしたみたいになりましたね。実は現役を退いた時に、指導者の道も考えました。すでに多くの指導者がいるなかで、どう違いを作り出すべきか。そこを突き詰めてみた結果、サッカーを上と下(上手い下手)だけではなく横に広げる資質が要ると思いました。まさか10年間も現場から離れて、こんなチャンスが巡ってくるとは思いもよらなかった。でもチャレンジできるチャンスだとは思いました」
監督に就任してみると、部内は殺伐とした空気に覆われていた。誰が試合に出る、アイツには負けたくない……。外池は、そんなピリピリした空気を、いったん真逆に振ってみようと考えた。
「それまでは言われたことをやるだけの部活で、『監督室なんて怖くて入れない』という選手がたくさんいた。そこで監督室のドアはいつも全開にして、面談は必ず1対1で行い、誰でも話しやすい空気を作りました。僕のことも監督ではなく『外池さん』とか『トノさん』と呼ぶように仕掛け、戦い方からメンバー選考まで、できるだけ学生たちに裁量を渡しました」