Jリーガー多数輩出、個性磨くサッカースクールの信念 子供に「正解を押しつけない」
サッカー少年たちの多くは所属チームとは別に、技術を磨くためにスクールに通う。malvaもそんなスクールの一つだ。ただ、他と大きく違う点が代表の浅野智久氏が掲げるスクールのコンセプトにある。数多くのJリーガー、WEリーガーを輩出するmalvaの信念とは一体どんなものなのだろうか。(取材・文=藤井雅彦)
サッカー選手から音楽業界へ、「誰もが楽しめる空間を作りたい」とスクール設立
サッカー少年たちの多くは所属チームとは別に、技術を磨くためにスクールに通う。malvaもそんなスクールの一つだ。ただ、他と大きく違う点が代表の浅野智久氏が掲げるスクールのコンセプトにある。数多くのJリーガー、WEリーガーを輩出するmalvaの信念とは一体どんなものなのだろうか。(取材・文=藤井雅彦)
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malvaサッカースクールを知っているだろうか。
首都圏を中心に現在20校以上を展開しているスクールで、大津祐樹(ジュビロ磐田)や上田綺世(鹿島アントラーズ)、古賀太陽(柏レイソル)など、これまで数多くのJリーガー、Fリーガー、そしてWEリーガーを輩出してきた。
コンセプトは明確だ。
『子供の数だけ正解がある』
malvaを立ち上げた張本人であり、現在も代表を務める浅野智久氏が目を輝かせながら解説する。
「まずはサッカーを楽しむこと。基本となる技術はもちろん教えますが、根っこにあるのは教わる側の子供だけでなく、教える側の大人も楽しむことです。子供だけではなく大人も学ぶことはたくさんあります。サッカーはこういうものだと大人が決めつけてはいけません」
十人十色の少年少女にボールを扱う技術はもちろんのこと、その手前にある思考を押しつけない。あくまでも自由な発想でプレーするからこそ、個々の特徴が見えてくる。malvaはそのプラットフォームの役割を果たしているというわけだ。
スクールが産声を上げたのは2000年のこと。日本がワールドカップに初出場したのが1998年のフランス大会で、開催国として決勝トーナメントに進出したのが2002年であるから、競技そのものの人気はうなぎ上りの時期と言っていい。
1971年生まれの浅野は小学4年生でサッカーと出会い、5年生から中学1年生の夏まで読売クラブ(現・東京ヴェルディ)に所属していた。自宅がある茨城県水戸市から片道3時間かけて東京の読売ランドへ通い、時には与那城ジョージやラモス瑠偉といったビッグネームと同じグラウンドで汗を流した。
高校時代はヤマハ発動機(現・ジュビロ磐田)のユースでプレーし、高校卒業後にサッカー王国ブラジルへ。1年間留学したのちに1部のボタフォゴと契約すると、ユース年代の大会で優勝も経験した。
帰国後も清水エスパルスのプロテスト合格や、テレビ番組に企画を持ち込んでセリエAに挑戦するなど、トピックには事欠かない。ただし膝の大怪我によって手術を繰り返すなど挫折も味わい、決して順風満帆なサッカー人生とは言えなかった。
フットサルの日本代表に選出された直後、再び膝に大きな傷を負った。病院のベッドで真っ白な天井を見つめながら、異なる世界へ進むことを心に決めた。
音楽業界へ飛び込んだのは1997年だった。
「小さな頃からサッカーしかやっていなかったので、違う世界を見たいという気持ちがあったんです。もともと父親がライブハウスを経営していたので音楽に興味がありました」
知人を辿ってレコード会社のイーストワークスエンターテインメントに入社。綾戸智恵、日野元彦、佐藤允彦が所属するレーベルでA&R(アーティストの発掘・契約・育成と楽曲の発掘・契約・制作などを担当する)として活躍し、新たな居場所を見つけた。
同時に、サッカーにのめり込んできた日々を回想するきっかけになったことを明かしてくれた。
「僕に音楽の才能はありませんでしたが、やり方次第で認めてもらえる場所を作れることが分かりました。その経験をいろいろな人に伝えたいという思いが芽生えてきたのが2000年です。最初は、地元の子供たちに対して何かできることを考えました。仕事でニューヨークへ行ったりしていた時期でもあって、誰もが楽しめる空間を作りたいという思いが強くありました。それで水戸にある倉庫を借りて、そこにフットサル場を作ったんです」
持ち前の行動力を存分に生かし、malvaの歩みがスタートした。