「スポーツは必ず計画が狂い、結末を知らない」 この社会に求められ、スポーツが根付いた歴史と考察――陸上・為末大
スポーツ文化・育成&総合ニュースサイト「THE ANSWER」はパリ五輪期間中、「シン・オリンピックのミカタ」と題した特集を連日展開。これまでの五輪で好評だった「オリンピックのミカタ」をスケールアップさせ、大のスポーツファンも、4年に一度だけスポーツを観る人も、五輪をもっと楽しみ、もっと学べる“見方”をさまざまな角度から伝えていく。「社会の縮図」とも言われるスポーツの魅力や価値が社会に根付き、スポーツの未来がより明るくなることを願って――。
「シン・オリンピックのミカタ」#95 連載「なぜ、人はスポーツをするのか」第5回・前編
スポーツ文化・育成&総合ニュースサイト「THE ANSWER」はパリ五輪期間中、「シン・オリンピックのミカタ」と題した特集を連日展開。これまでの五輪で好評だった「オリンピックのミカタ」をスケールアップさせ、大のスポーツファンも、4年に一度だけスポーツを観る人も、五輪をもっと楽しみ、もっと学べる“見方”をさまざまな角度から伝えていく。「社会の縮図」とも言われるスポーツの魅力や価値が社会に根付き、スポーツの未来がより明るくなることを願って――。
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今回は連載「なぜ、人はスポーツをするのか」。現役アスリートやOB・OG、指導者、学者などが登場し、なぜスポーツは社会に必要なのか、スポーツは人をどう幸せにするのか、根源的価値を問う。第5回は陸上400メートル障害でシドニー、アテネ、北京の五輪3大会に出場した為末大さん。引退後は「スポーツで社会を良くする」を目指し、さまざまなステージで活躍。そんな為末さんとスポーツの意義について考える。(前後編の前編、取材・構成=THE ANSWER編集部・神原 英彰)
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なぜ、人はスポーツをするのか。難しい問いですが、まずスポーツの定義について考えます。
私は「スポーツとは身体と環境の間で遊ぶこと」と定義しています。人間は古くから「遊ぶ」という行為をやってきました。「遊ぶ」には何かを生み出すクリエイティビティがあり、コミュニケーションを取りながら、相互に理解が生まれる。ただし、体格差がある状態で、全力でぶつかると一方的になるため「遊ぶ」は成立しない。よって、条件を合わせることが必要になる。これがスポーツの根源にあります。
そんなスポーツが文化として、なぜこれだけ社会に根付いてきたかも考えてみます。
背景にあるのは、社会では既存の秩序がとても強いこと。しかし、例えば「釣りバカ日誌」では、ハマちゃんの会社のヒエラルキーが釣りになると逆転する。スポーツはそれに近い力があります。スポーツの語源はラテン語の「deportare(デポルターレ)」。もとは都市から離れるという意味合いがあったそうです。都市部には権力があり、それに従う構造がある。でも、町をひとたび出ると、それらが崩れてフラットな関係で相互に交流できた。
その秩序と無秩序の行き来が人間にとって重要であり、スポーツが求められたのではないか。教育的な効果がある、健康にも良いなどと言われてきましたが、最初は社会でヒエラルキーが硬直しすぎず、それぞれが豊かに生きていくためにスポーツが必要とされた。そして、今も人はスポーツをしているのだと、私は思っています。
スポーツには意識の世界を越え、夢中になれる喜びがあります。
スポーツの面白さを考えると、「リアルタイム性」が挙げられます。人間の意思決定において、何かに反応し、判断するまでにかかる時間は0.5秒と言われますが、野球やテニスに代表されるスポーツの世界はその時間がもっと短い。なぜ、そのように速くできるのか。意思決定は実は脳だけでしているわけではないという話があります。
人間以外の動物は生命活動の中で何かを追ったり追われたりする。その場合、脳で考えて動くのでは間に合わない。人間は進化するプロセスの中で「意識」が生まれ、物事に触れ、情報を入れた後、考えてアウトプットする。これが人間の知性であると、デカルトあたりから言われ始めましたが、それもせいぜいここ数千年の人間観。それより前は、蜂が飛んで来たらパッと手で追い払うとか、獣と出会ったら咄嗟に逃げるとか、考えるよりも反射的に体が動く世界を生きていたのではないかと思います。
だから、人間は本能的にリアルタイム性を楽しめる。例えば、子どもたちにスポーツを教える時、「体に意識を向けて」など理屈で説明すると、どんどん反応が鈍くなっていく。代わりに「飛んできたボールをすぐ投げ返して」 など、感覚の世界だけに興味を向けると速くなる。そして、その方が子どもたちも楽しそう。人間の自然な動きは考えすぎないで体に任せる世界。それができている時、人は幸せなのではないか。