日本PK敗退の裏で名言が話題に ロベルト・バッジョの今、親日家でもあった美しき10番
サッカーのカタール・ワールドカップ(W杯)は連日熱戦が繰り広げられている。なかには「4年に一度のW杯だけは観ている」あるいは「昔はよく見ていたけど、最近は…」という人もいるだろう。そんなファン向けにかつてW杯に出場し、話題になった海外選手をプレーバック。懐かしい“あの人”の今をお届けする。今回は「イタリアの至宝」と呼ばれ1980年代後半から2000年代前半にかけて活躍、94年アメリカW杯で悲運の英雄となったイタリア代表FWロベルト・バッジョだ。
【W杯あの海外選手は今】94年アメリカ大会 イタリア代表FWロベルト・バッジョ
サッカーのカタール・ワールドカップ(W杯)は連日熱戦が繰り広げられている。なかには「4年に一度のW杯だけは観ている」あるいは「昔はよく見ていたけど、最近は…」という人もいるだろう。そんなファン向けにかつてW杯に出場し、話題になった海外選手をプレーバック。懐かしい“あの人”の今をお届けする。今回は「イタリアの至宝」と呼ばれ1980年代後半から2000年代前半にかけて活躍、94年アメリカW杯で悲運の英雄となったイタリア代表FWロベルト・バッジョだ。
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高い技術と創造性を備えた稀有な才能を持つ選手は、イタリアでは「ファンタジスタ」と呼ばれるが、この言葉を日本のサッカーファンに知らしめた存在こそがロベルト・バッジョだろう。10代の頃から将来を嘱望されるタレントとして注目を集めると、膝の怪我に苦しみながらも1985年から在籍したフィオレンティーナで輝きを放つ。90年に名門ユベントスへの移籍が決まった際に、サポーターによるクラブへの暴動が起きたのは有名な話だ。
ユベントス時代にはセリエA優勝やUEFAカップ(現・UEFAヨーロッパリーグ)制覇を経験。自身も93年にバロンドール(世界年間最優秀選手賞)を獲得するなど、キャリア全盛期を過ごした。95年にACミランへ移籍後も、当時「世界最強リーグ」と言われたイタリアのセリエA一筋でプレー。戦術が年々進化し、攻撃側の選手が使えるスペースと時間が限られるようになった時代の流れの中で、指揮官に冷遇される時もあった。しかしバッジョは、そのたびにトレードマークのポニーテールをピッチ上でなびかせながら、「ファンタジスタ」と呼べる美しいプレーで結果を残し、存在を誇示し続けてきた。
そしてキャリアを振り返る上で不可欠なのが、イタリア代表での活躍だ。23歳だった90年に地元開催のW杯に初出場。グループリーグ第3戦のチェコスロバキア戦では、華麗なドリブルで敵陣を突破してゴールを決めるなど母国の3位に貢献した。
キャリアのピークで迎えた94年のアメリカW杯は、バッジョのサッカー人生におけるハイライトと言える大会だった。酷暑の中で行われた大会で、自身もチームもグループリーグ3試合では精彩を欠いてしまう。だが決勝トーナメント1回戦のナイジェリア戦、0-1で迎えた終了間際の後半44分に起死回生の同点ゴールを決めると、延長戦ではPKを決めて復活。準々決勝のスペイン戦でも決勝点、準決勝ブルガリア戦では鮮やかな2ゴールと、3戦5得点の活躍でチームを決勝に導いた。
ブラジルとの決勝戦、満身創痍だったバッジョの体は限界を迎えていたなかで、試合は0-0のままPK戦へ。2-3で迎えた5人目のキッカー、右足から放たれたシュートはクロスバーの上へ高く外れていく。悲運のヒーローとして、ゴール前でうな垂れる姿はアメリカW杯を象徴するワンシーンとして語り継がれている。
また、のちに語ったとされる「PKを外すことができるのは、PKを蹴る勇気を持つ者だけだ」という名言は、今大会の日本代表が決勝トーナメント1回戦でクロアチアにPK戦でキッカー3人が失敗し、敗れた際にネット上で改めて脚光を浴び、話題を呼んだ。
キャリア晩年も怪我に悩まされたが、最後のクラブとなったブレシアではそのたびに復活。85年に仏教に改宗し、99年と2000年には国立競技場で開催された「JOMO CUP Jリーグドリームマッチ」にJリーグ外国籍選手選抜のゲストとして出場するなど、親日家としても知られていただけに、02年日韓W杯への出場を熱望していたがメンバーには選ばれず。04年5月、37歳でスパイクを脱いだ。
その後はしばらく公の場から姿を消しており、メディアのインタビューを受けたり解説業をすることもなかった。08年当時の英サッカー専門誌「FourFourTwo」の記事によれば、アルゼンチンにある自身の農場で狩りをしたり、人道主義的な運動を広めるために世界を旅していたという。また世界の貧困撲滅のために身を捧げ、国連食糧農業機関親善大使としての役割も務めていた。
10年からはイタリアサッカー連盟で一時テクニカル部門のスタッフを務めており、自身も指導者ライセンスを取得。現時点で表舞台には立っていないものの、55歳となった今もサッカーへの情熱は失っていないようだ。
(THE ANSWER編集部)