ユ・サンチョル氏死去 “日本人最後の愛弟子”が胸打たれた会話「痛くても100%で…」
心に残る中華料理店の思い出「代表に選ばれない理由分かったと言われた」
一度の練習参加で大田との契約が決まったという馬場さん。プレイヤーとしては圧倒的なフィジカル能力からGK以外のポジション全てをハイレベルでこなすオールラウンダーとして有名だった柳氏だが、どんな監督だったのだろうか?
【特集】“欽ちゃん球団監督”片岡安祐美の今 2度の流産を経て母に…思春期の後悔「生理に見て見ぬふりを」
(W-ANS ACADEMYへ)
「柳さんも大田が監督1年目でした。選手の特徴、長所を引き出すタイプで、常に選手とのコミュニケーションを絶やさない。マン・マネジメントに優れた監督だったと思います。『自分も1年目なので色々教えて欲しい』という謙虚な言葉も印象的でした。選手との会話を交わすことで、監督としても勉強したいという向上心も強かったと思います」
ボランチながら2年間で公式戦6ゴールを決めた馬場さん。試練の2012年シーズンは恩師と乗り越えた一年だったという。
「怪我以外ではずっと攻撃的なボランチで試合に使ってもらいました。韓国語を話せない僕のために、日本人スタッフも呼んでくれました。チームは戦力的に整っていなかったので、2シーズン目に残留争いを余儀なくされました。そんな時に、柳さんの人間性でチームがまとまりました。この人のために試合に出て、この人を降格させてはいけない、と。僕も肉離れしましたが、気合で戦線復帰したこともありました。水原三星という強いクラブを倒すなど、何とか勝ち点を積み上げたこともあって、ギリギリで残留を決めました。あれは感動的で覚えています」
1部残留を果たしたチームだが、資金難から柳氏はシーズン終了後に監督を退任。その直前に中華料理屋で食事をした際の言葉は今でも心に残っているという。
「中華料理屋では『お前は文句なしにサッカーがうまい。だが、日本代表に選ばれない理由も私には分かった』と柳さんから言われました。僕はフィジカルコンタクトが激しい、Kリーグで怪我がちでした。それでも、多少痛くてもスプリントの1本に100パーセントでやるべきだ、と。ドイツで活躍している長谷部の例を挙げて、国を代表する選手が周囲からどんな風に見られるのか、そこを強く意識するように言われました」
馬場さんにとっては親友でもあるフランクフルトMF長谷部誠を例に挙げながら厳しく指摘された恩師の言葉は、17年から「LUPINUS(ルピナス)サッカースクール」を立ち上げ、育成年代の指導者を務めている現在も忘れていないという。
「柳さんはJリーグで活躍したので、日本の指導スタイルが大好きでした。よほどのことがなければ怒らない。本当のジェントルマンでした。最後に会ったのは、4年前。蔚山大学の監督時代ですね。当時はすごく元気でした。それからも定期的に通話アプリで話していましたが……本当に残念です。もう一度会いたかったです」
恩師の早すぎる死に馬場さんは無念さを滲ませていた。
(THE ANSWER編集部)