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「戦力外通告は“終わり”じゃない」 通告から7年間プレーを続けた元Jリーガーの挑戦

1999年、鹿島アントラーズへ入団するも、怪我に悩まされ、2008年に戦力外通告を受けた。その後自らプレーの場を求め、シンガポール、インドネシア、タイ、ミャンマーと東南アジアのリーグでプレー。2015年に現役引退。引退後は本庄第一高校サッカー部の監督を務め、現在はサッカー選手のエージェント業を本業に、ユーフォリア社にも所属し選手たちをサポートする。中心にあるのは、サッカー界への恩返しという思いだ。金古聖司氏はキャリアをどう考え、この先に何を描くのか。(聞き手=ドットライフ・粟村 千愛)

金古聖司氏はキャリアをどう考え、この先に何を描くのか【写真:小野瀬健二】
金古聖司氏はキャリアをどう考え、この先に何を描くのか【写真:小野瀬健二】

戦力外通告後、海外で7年間プレーした元鹿島・金古聖司氏の今とこれから

 1999年、鹿島アントラーズへ入団するも、怪我に悩まされ、2008年に戦力外通告を受けた。その後自らプレーの場を求め、シンガポール、インドネシア、タイ、ミャンマーと東南アジアのリーグでプレー。2015年に現役引退。引退後は本庄第一高校サッカー部の監督を務め、現在はサッカー選手のエージェント業を本業に、ユーフォリア社にも所属し選手たちをサポートする。中心にあるのは、サッカー界への恩返しという思いだ。金古聖司氏はキャリアをどう考え、この先に何を描くのか。(聞き手=ドットライフ・粟村 千愛)

シンガポールのチームでプレーした過去を持つ【写真:小野瀬健二】
シンガポールのチームでプレーした過去を持つ【写真:小野瀬健二】

 ◇ ◇ ◇

――海外への挑戦を決めた背景には、どんな思いがありましたか。

「2009年に鹿島から戦力外通告を受けて、サッカーをやめようか悩んでいました。そんなとき家の周りをランニングしていたら、偶然出会ったおばさんに『サッカー選手になれたらいいね』と声を掛けられたんです。鹿島はサッカーの街なんですけど、私がサッカー選手だと知らない人だったんですね。それを聞いて、地元の鹿島でも自分は認知されてないのか、とすごく悔しくなったんです。

 加えて、私の様子を見ている妻が『やめる理由をちゃんと見つけた方がいい』と言ってくれたこと。『日本では怪我が多くてプレーできるチームが見つからないけど、世界中探したらあるかもしれない。それでもチームが見つからなかったら納得してやめられるんじゃない』と。それで海外に挑戦することを決めました。

 当初、代理人を通じて韓国のあるチームの練習に参加しようと思ったのですが、後にチームメイトになる日本人選手から『シンガポールのチームのディフェンスがうまくいっていないから明日来られる?』と連絡が来て。その日のうちにチケットを予約して、次の日飛び立ちました。『外国なのに明日!?』と思いましたが、案外海外ってこんなに簡単に行けるんだと思いましたね」

――日本とは違った環境の中で、すぐにチームにはなじめましたか?

「シンガポールでの1年目は一番きつかったです。言葉が分かりませんし、これまでやっていたサッカーの『当たり前』が通用しない。例えばディフェンスだったら、1人がアプローチに行ったらカバーに行くべきなのに、そのカバーがない。『なんでできないんだ』とメンバーに対しいつも怒っていました。摩擦も起きましたね。

 でも、チームのみんなと一緒に地元の店にご飯を食べに行ったり、英会話の教室に通って言葉を覚えたりして、少しずつ交流が深まっていき、サッカーで『当たり前』だと思っていたことを伝えていきました。それに私は外国人枠として迎えられているので、シンガポールの選手と同じではダメだという部分もありました。試合では結果を出す、練習にもちゃんと向き合う、そういうところはすごく気をつけていました。私が入った年、リーグ4位だったチームは2位に。移籍して3年目で優勝しました。

 環境が変わっても、そこに順応する。どんな場所でも自分の価値を見出し発揮するということは、サッカーを通じて学んだことですね」

シンガポールプレミアリーグのタンピネス・ローバースFCへ移籍後の2011年と2013年のリーグ優勝に貢献。写真左は当時ともにプレーしていた山下訓広選手【写真:金古氏提供】
シンガポールプレミアリーグのタンピネス・ローバースFCへ移籍後の2011年と2013年のリーグ優勝に貢献。写真左は当時ともにプレーしていた山下訓広選手【写真:金古氏提供】

「人間・金古聖司」として何ができるか考えさせられた海外プレーと帰国後の指導経験

――引退を決めたタイミングは。

「海外に行くと決めた時、もうひとつ決めたことがあるんです。それは、ヨーロッパにチャレンジすることでした。それを果たすために、シンガポールで1シーズン目が終わるタイミングで、ドイツの3部のチームの練習に参加したんです。2週間ほど練習して、監督からは契約したいと言ってもらえました。条件が折り合わず契約には至りませんでしたが、ドイツでもある程度自分のプレーが通用するんだと分かったので、自分の中でヨーロッパへのチャレンジはひとつ区切りがつきましたね。

 その後、シンガポールのチームのオーナーの厚意でチームに戻ることができ、プレーした後、インドネシア、タイ、ミャンマーと東南アジア各地でプレー。最後のミャンマーのチームでは、ほとんど負けがない状態でぶっちぎりで優勝しました。でも、最終的にはクビを切られてしまって。その後マレーシアで挑戦しましたが、練習中に若手選手と走っていて体力差も感じ始めていましたし、私の両膝はボロボロでした。ここまでやったからいいかな、と納得できたんです。怪我が多かったという悔しさはありましたが、ここまでよくやった。35歳、ようやく自分を褒めることができました」

引退後のことはいつから考え始めたのか【写真:小野瀬健二】
引退後のことはいつから考え始めたのか【写真:小野瀬健二】

――その後、本庄第一高校で監督に就任されました。引退後のことは、いつから考え始めましたか?

「実は早い段階から考えていました。具体的には、海外に行った頃からですね。日本でプレーしていた頃は、起業家や経営者などさまざまな人に会う機会はあるのですが、サッカー以外に何かしようとは思っていませんでした。当時はそんなことを考えるなら練習しろという雰囲気でしたし、自分も怪我が多かったこともあり、ケアの時間を重視していました。

 でもシンガポールでは、500人規模の日本人向けサッカースクールを運営していたり、5か国語を話せる選手がいたり、駐在で来ている人やシンガポールで起業された人を見て、日本にいた時にもっと視野を広げておけばよかったと思いました。

 日本にいた時は、飛行機や新幹線のチケットを自分で買ったこともなかったし、ホテルもとってもらっていました。チームに守られていたんですよね。でも、海外に行ったら自分のことは全部自分でやらなければならない。生活を含めて自分をマネジメントしていく必要があるんです。英語を話さないと生活できなかったので勉強もしました。海外に行って成長したと思いますし、世の中を知って自立したと感じますね。その環境で、サッカー以外のことも自然と考えるようになりました。

 海外に行って、『選手』ではなく一人の人間として接してもらえたことも大きかったです。シンガポールやタイには家族と一緒に行っていたので、子どもは現地の学校に通っていましたし、コミュニティの中で暮らしていました。家族をサポートしてくれる地元の人たちに感謝し、自然とこの国の人たちのために何かしたいなと思うようになったんです。

 ある国では、国の経済援助によって『日本人に道路を造ってもらった』と自分にも好意的に接してくれました。日本の先輩たちが頑張ってくれたから今この道があるんだと感じられました。自分も海外にいる日本人の一人として、後進の道になれるように、自分にできることをしようと考え行動するようになりました。

金古氏が2015年から1年間プレーしていたヤンゴン・ユナイテッドFC時代、ミャンマーの養育施設の子どもたちをスタジアムに招待【写真:金古氏提供】
金古氏が2015年から1年間プレーしていたヤンゴン・ユナイテッドFC時代、ミャンマーの養育施設の子どもたちをスタジアムに招待【写真:金古氏提供】

 例えばミャンマーにいた時は、試合のチケット代は自分が持ち、施設の外に出る機会の少ない養育施設の子どもたちをホームでのほとんどの試合に招待したことがありました。子どもたちが見に来てくれた試合では、1回も負けませんでしたし、子どもたちの笑顔を見て逆に励まされました。ほかには、ミャンマーでは質の良いスポーツ用品が売っていませんでした。サッカー選手が良いスパイクを買えない状態だと知って、自分でスポーツショップを経営しようと考えたこともありました。ちょうどチームとの契約が終わってしまい実現には至りませんでしたが、販売ルートやテナントまで見つけていたんです。『何か自分にできることはないだろうか』と探していましたね」

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