萩原次晴さんが語る兄との秘話 “おまけの扱い”覆した競技人生の集大成
兄と間違われてサインを求められることも
中学3年時には、揃って出場した全国大会で健司さんが優勝、次晴さんが準優勝。そして高校時代にはともに日本代表ジュニアチームメンバーに選出されるなど将来を嘱望されるようになった2人だが、早稲田大学入学後、対照的なキャリアを歩むようになったという。
次晴さんは大学時代スキー部に所属しながらも、「学校にも行かず、トレーニングもしない」時期があったという。一方で健司さんは対照的に日々、厳しい練習を積み重ね、1992年アルベールビル五輪で団体金メダルを獲得。W杯でも個人総合3連覇を果たすなど「キング・オブ・スキー」の異名を取るようになった。
「当時の健司フィーバーは、今にたとえると、羽生結弦さん、石川遼さん、浅田真央さんと同じくらいですね。かなり有名人。健司と間違われて『サインをしてくれ』と言われるんです。それは弟として誇りでもあったんですが(笑)、その数がものすごく多くて、自分は弟なんだと断った時に『なんだよ、ニセモノかよ!』と文句を言われた時に目覚めましたね。この世の中には『荻原次晴』っていう人間が存在しているんだと証明するためには、オリンピックに出るしかないと思い、挑戦するきっかけができました」
そして次晴さん自身、2年後のリレハンメル五輪出場を目指し、色々なものを犠牲にして全てをスキーに捧げるようになった。ゴールを決めたことで、トレーニング計画も立てやすく、成績は右肩上がりに上昇。日本代表選考直前まで、健司さんを上回る成績を収めるなど好調を維持し、五輪出場が手に届くところまで来ていた。
しかし、不透明な選考基準で、落選――。それでも、これが一度火がついた闘志を一層燃え上がらせるきっかけとなったという。