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初の引退会見は日本トライアスロン新時代の証 高橋侑子の落選騒動から…透明化された代表選考

落選きっかけに変わった日本の選考基準

「リオ五輪落選」をその後の糧にしたのは、高橋だけではない。日本代表の選考基準は見直され、明確化、透明化された。次の五輪に向けてどの競技団体よりも早く代表選考方法を公表するのが、トライアスロンだ。かつて、日本水泳連盟が「千葉すず問題」で揺れ、代表選考方法を大きく変えたのに似ている。

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 この日、大塚専務理事は高橋の競技歴紹介に、あえて「リオデジャネイロ五輪補欠」を加えた。公式な競技歴にもないし、その後2大会出場しているのだから明かす必要もない。当時を知る者には代表選考の混乱を想起させるから、競技団体としても伏せておきたいはず。それでも、大塚氏は「あえて紹介した。組織が成長していくためにも、リオの一件が大きなきっかけになったから」と話した。

 これまで、リオ五輪の代表選考は日本トライアスロンの「黒歴史」だと思っていた。だから、この日の会見が「贖罪」などと思ってしまったが、当事者たちの努力と時間が負の歴史を好転させていた。高橋は日本のエースに成長し、トライアスロンジャパンも組織として発展した。「黒歴史」ではなく、日本トライアスロンにとっても新しい時代への大きなターニングポイントになっていた。

 リオ五輪の落選をはじめ苦しいことも少なくなかった競技人生だろうが、高橋は「幸せだったと自信を持って言える」と胸を張った。ラストレースとなった7日のW杯宮崎大会、日本人最高の7位でゴールすると、後輩たちからサプライズの花束が贈られた。「日本のトライアスロンを引っ張ってくれた。みんなが、その背中を目標にした」と大塚氏は心からの感謝を口にした。会見の最後、2人はパネルの前で握手をかわした。トライアスロン界では異例の引退会見は、最高の笑顔で締めくくられた。

(荻島 弘一 / Hirokazu Ogishima)

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荻島 弘一

1960年生まれ。大学卒業後、日刊スポーツ新聞社に入社。スポーツ部記者としてサッカーや水泳、柔道など五輪競技を担当。同部デスク、出版社編集長を経て、06年から編集委員として現場に復帰する。山下・斉藤時代の柔道から五輪新競技のブレイキンまで、昭和、平成、令和と長年に渡って幅広くスポーツの現場を取材した。

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