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初の引退会見は日本トライアスロン新時代の証 高橋侑子の落選騒動から…透明化された代表選考

記念品のパネルを贈ったトライアスロンジャパンの大塚真一郎専務理事(左)と高橋【写真:編集部】
記念品のパネルを贈ったトライアスロンジャパンの大塚真一郎専務理事(左)と高橋【写真:編集部】

落選から翌年、単身で米国へ

 リオ五輪の翌年、17年1月に単身海を渡る。それまでも海外のクラブでトレーニングする選手はいたが、高橋の場合は五輪のメダルを目指してトップ選手が集まる米サンディエゴの多国籍チーム「ザ・トライアスロン・スコッド」にアジア人として初めて加入。国内のクラブではなく、あえて海外から五輪を目指す道を選んだ。

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 高橋の成長は素晴らしかった。17年のアジア選手権で初優勝し、18年アジア大会では個人とリレーの2冠を獲得。18年10月の日本選手権で初優勝し、名実ともに日本のエースになった。この日の会見で口にした最も印象に残るレースは19年5月の世界シリーズ横浜大会。同じチームで練習する選手たちとトップ争いをし、表彰台は逃したものの4位入賞。「自分の中で殻を破れたレースだった」と話した。

 その後も実績を積み上げた。アジア大会は23年も2冠、アジア選手権は4回優勝し、日本選手権も4回勝った。もっとも、文句なく選出された東京五輪は18位、連続出場を果たしたパリ五輪は40位、最大の目標とする五輪では悔しい結果に終わった。世界選手権シリーズでも、1度も表彰台に立つことはなかった。それでも、世界の強豪と対等な立場で渡り合い、コンスタントに上位に入った。

 圧倒的な競技成績を残したわけではない。期待された五輪のメダルにも届かなかった。それでも、高橋の残したものは大きい。日本選手として初の海外トップクラブでの生活。「(精神的に)ずいぶんタフになりました」と話し「次世代に伝えたい」と言った経験こそが日本の宝。「トライアスロンに恩返しがしたい。強化や普及に関わりたい」と話したが、高橋でなければできないことも多い。

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荻島 弘一

1960年生まれ。大学卒業後、日刊スポーツ新聞社に入社。スポーツ部記者としてサッカーや水泳、柔道など五輪競技を担当。同部デスク、出版社編集長を経て、06年から編集委員として現場に復帰する。山下・斉藤時代の柔道から五輪新競技のブレイキンまで、昭和、平成、令和と長年に渡って幅広くスポーツの現場を取材した。

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