イチロー知られざる“1軍半”時代…監督指示に「できません」 18歳の習慣にオリ先輩が驚愕「これ絶対やられる」

1軍定着できなかったイチロー…監督の注文に「できません」と言った日
イチローは1年目から2軍で打率.366という圧倒的な数字を残し、1軍に呼ばれるようになった。ただ当時は行ったり来たり。2年目には打撃フォームの修正で、首脳陣と対立したこともあった。当時の土井正三監督とのやり取りを、山森さんはすぐ隣で聞いていた。
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「王さんはピッチャーが上げたら足を上げるんだから、お前も上げろって言われてね。イチローは『いや、僕できません』って言いましたからね」。今より上意下達の色が濃い時代。監督の言葉に異を唱える19歳は異色だった。
2軍落ちしたイチローは、後に一世を風靡する振り子打法に挑んでいた。「落とされても、何せバットだけは振ってましたから」。ベンチプレスをやった直後にバットを振り込んだ。スクワットをやっても同じ。どんなにウエートトレーニングしても、必ずバットスイングとセットだった。
山森さんは思わず「なんでウエートのあとすぐに、バットを振るの?」と聞いた。「体に覚えさせないといけないんだと言ってましたね」。翌1994年、開幕直前に登録名が「イチロー」となった。振り子打法でスターダムを駆け上がり、シーズン210安打を放つと、もう2軍には帰ってこなかった。そして山森さんにとっては、現役最後の年となった。
今も思い出す場面がある。オリックスの選手たちで行った焼肉店。イチローは白い脂を自分でそぎ落とし、肉の赤身だけを食べていた。「僕らはみんな『ここがうまいのに、もったいない』って言っていましたよ。でも全くブレない。見ているところが違いました」。変わるべき部分は変わり、守るべきものは守る。のちの姿に重なる部分をいくつも、当時から見せていた。
山森さんは引退後すぐに、日本ハムでコーチになった。敵として見たイチローは、とんでもない脅威だった。打撃はもちろん、右翼からのレーザービームも。「もう、捕ったら(走者は)止めですよ。ストップ。三塁コーチのタイミングとしては、ライトが捕る前にランナーが三塁を踏んでいれば、ほぼ回すんですがね。イチローの場合は全然、判断基準が違いました」。まさに格が違った。
「今、守れて、打てて、走れてって三拍子揃った選手が今、プロ野球もメジャーも少ないじゃないですか。そう考えると彼はものすごく価値がありますよね」。ひたすら一発長打を狙う傾向が強まる球界で、打っても守っても、走ってもプロの真髄を見せたイチロー。その存在は決して色褪せない。
(THE ANSWER編集部・羽鳥 慶太 / Keita Hatori)
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