イチローより先に米野球殿堂を沸かせた日本人 世界が驚く超軽業…フェンスをスルスル、オリ先輩の偉業「本当にできるなんて」

読みも生きたスーパープレーに驚きの申し出「アメリカの殿堂が…」
「もうね、みんなに『サルか!』って言われるくらいやってました。西宮はもちろん、藤井寺、川崎、後楽園、平和台とね」。当時パ・リーグが使っていた球場は、どこもフェンスに登ろうと思えば登れる高さだった。やがて試合でも、はるか頭上を超えていく大アーチに対し、フェンスに登ってみるようになった。
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「落合(博満)さんなんか、一歩も動かずホームランっていうのは何度もありましたけど、まさか本当にギリギリの打球がきて、試合で捕れるなんてね」。練習を始めて、たった数か月での大成功だった。その後の顛末も覚えている。弘田さんは身長163センチという小兵で、この年も本塁打は5本にすぎない。「次の日、福本(豊)さんが『弘田が1本損したって怒ってるぞ』と教えてくれて。謝りに行きましたよ」と苦笑いだ。
実現するとは思っていなくとも、備えは怠らなかった。年に数度、ひょっとしたら一度もないプレーまで練習しておくのが、阪急の野球だった。奇跡のキャッチも準備と想像力のたまもの。弘田さんが引っ張った打球は風で少しずつ、左翼ポール方向へ流されていった。甲子園球場でおなじみの浜風だ。いったんフェンスに登ったら、位置の修正はなかなか難しい。風を読みながら、登る位置を計算する必要があった。
西宮球場は、甲子園よりわずかに内陸にあった。「晴れの日は、ライトからレフトに風が吹くんです。そして雨の時は逆に、レフトから流れる。旗はいつも見ているので頭に入れて動きましたね。夜になればなるほど、ちょっとずつ風が来るので」と山森さん。のちにゴールデングラブ賞(1986年)にも輝く好守は、高い身体能力に読みが備わってのものだった。
ただ、当日の入場者は公式発表でもわずか4000人。水増し発表も当たり前の時代だった。現在残る写真を見ても、レフト外野席はほぼ無人だ。あまりに見事なこのプレーはその後、テレビの「珍プレー好プレー」などを通じて世に知られるようになった。さらに驚きの事態につながるのは、2年ほどしたころだ。ある日球団広報に、愛用のグラブをくれないかと頼まれた。あの本塁打キャッチが「アメリカの野球殿堂」で紹介されるのだという。最初は何のことだかわからなかった。
「後楽園に日本の殿堂があるのは知っていましたけど、アメリカの殿堂というのが理解できなくてね。説明してもらって驚きました。でもあのプレーで使ったゼットの黒いグラブはもう、人にあげてしまっていたんです。『もっと早くに言ってくれれば』とは思いましたけどね」
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