斎藤佑樹に憧れた早実「背番号1」が米挑戦 ガス営業マン生活で覚醒した“奇跡の物語”
かつて斎藤佑樹に憧れ、「WASEDA」の背番号1をつけた男が、明日2月13日、サラリーマン生活から一転、異例のアメリカ挑戦に打って出る。「やるしかないんです」――。ネクタイを締めた胸を張り、こう息巻いた。
早実元エースの24歳・内田聖人―社会人戦力外後の会社員生活で復活、異例の挑戦へ
かつて斎藤佑樹に憧れ、「WASEDA」の背番号1をつけた男が、明日2月13日、サラリーマン生活から一転、異例のアメリカ挑戦に打って出る。「やるしかないんです」――。ネクタイを締めた胸を張り、こう息巻いた。
【注目】育成とその先の未来へ 野球少年・少女、保護者や指導者が知りたい現場の今を発信、野球育成解決サイト「First Pitch」はこちら
「周りの奴らを蹴落とすつもりで。この1か月でオファーをもらい、メジャーのマイナーや独立リーグでプレーすることが理想にある。自分が持っているすべてをぶつけたい」
その名は、内田聖人と言う。24歳。現在、どこの社会人チームにも、クラブチームにも所属していない、会社員である。いったいなぜ、そんな男が海を渡ろうとするのか。その裏に、驚きの“覚醒物語”があった。
もともとは将来を嘱望された逸材だった。伊東シニア時代に日本代表に選ばれ、高校は名門・早実(東京)に進学。2年夏の甲子園に出場し、聖地のマウンドを踏んだ。3年夏は伝統のエースナンバー「1」を背負い、「佑の後継者」と新聞に書かれた。「大学からプロに行く」と決めて進んだ早大。1年春からリーグ戦に登板し、自己最速の150キロをマークするなど、頭角を現した。
しかし、怪我がキャリアに影を落とした。3年で肘痛を発症。以降、思うように投げられず、社会人のJX-ENEOS入り。再起を期したが、一度失った感覚は戻らない。フォームを見失い、イップスにも陥った。試合に出て渾身の直球を投げて振り返ると「129キロ」と表示されたことがある。「嘘だろ」と思った。野球人生で初めて経験した裏方で、記録用のビデオの撮り方を初めて覚えた。
2年目の16年末。「社業に専念してくれ」。チームから“戦力外通告”を受けた。覚悟はしていた。野球人生は終わり。JX-ENEOSといえば、大企業だ。今後はサラリーマンとして、安定した生活で生きていく。普通はそうなる。ただ、当時、心の中には一つ、ある感覚が芽生え始めていた。「本当に、最後の最後の1か月、いいなと思う球が投げられるようになっていたんです」――。
「ちょっとだけ、タイミングが遅かった。それで引退した時、大げさではなく『ああ、自分はこのまま何もしないで死んでいくのかな』って考えた。せっかく、ちょっと投げられるようになってきたから、来年に向けて準備はしようと。何らかの形でもう一回、どこかで挑戦できるならやってみたい。当時はまだ23歳。4月までは肩肘を使わないトレーニングをして、そこから考えようと」
とりあえず、社業に全力を尽くす。でも、野球の道は閉ざさない。そう、心に決めた。ここから誰も知らない逆襲が始まった。