箱根駅伝に異変 “長距離不毛の地”沖縄ランナーが躍進、環境不利な南国で何が…変革を牽引した2人の存在
日中回避とプール活用 “亜熱帯地域”ならではのトレーニング
自身も北山高校出身の大城さん。もともと400mをメインとした短距離選手だったが、中京大学で長距離に転向した。大学1年生だった1983年に女子の全国都道府県対抗駅伝が始まり、第1回大会から5年連続で出走した。アンカーを務めたことも2回ある。
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しかし、順位は毎年最下位争い。「沖縄」と書かれたタスキを掛け、競技場へ戻った時にスピーカーから流れる順位のアナウンスとねぎらいの拍手は屈辱的だった。劣等感と同時に、使命感が湧いた。
「沖縄の子ども達に同じ思いをさせてはいけない。長距離の指導者になろう」
1989年に地元沖縄で体育教師として本採用となり、1994年に赴任した本部高校で女子の駅伝部監督に就いた。大学で積み重ねたノウハウを伝え、県高校駅伝で最高3位に。ただ、なかなか全国の舞台に届かない。2001年に転勤した名護高校で、改革に乗り出す。
強豪校の練習方法を知ろうと、九州大会で知り合ったコーチに「チーム練習に混ぜてほしい」と頼んで回った。しかし、力の差が大き過ぎて、厳しい言葉を掛けられることもあった。
「一緒に走っていると名護高校の選手たちがバタバタと落ちていくから、『練習の雰囲気が壊れる』と言われたこともありました。当然あちらも本気なので、そう言われても仕方がない。ただ、沖縄を強くするためにはそんな事で諦める訳にはいきません。先生方の厚意で貴重な機会を頂けたので、毎年休み期間を利用して九州の強豪校へ自費で勉強しに行きました」
学んだ練習メニューをそっくり沖縄に持ち帰った。夏休みや休日は2部練習を行い、できる限り長い距離を走り込む。しかし、期待したほど選手の走力が伸びていかない。障壁となったのは、やはり「暑さ」だった。
「沖縄の冬は気候的にも長距離練習に向いているのですが、問題は一番力を伸ばしたい時期である夏場でした。県外であれば涼しい山もあるから日中でも長く走れますが、沖縄の夏は午前8時頃には既に厳しい暑さになっているので、炎天下で走るとすぐにバテてしまいます。内臓疲労のリスクも高い。日中を避けて早朝と夕方以降に2部練習を行った時期もありましたが、今度は睡眠不足でうまく疲れが取れませんでした」
悩んだ末、名護高校6年目で2部練習を廃止。「長い距離を踏む」という発想を捨て、チーム練習は午前中のみにした。国内唯一の亜熱帯地域に適したトレーニングとは何か。模索した。
まず重視したことは、選手を紫外線に当てないこと。ただ沖縄は涼しい高地の山が少なく、日陰の少ない周回コースは皆無だった。思い出したのは、寒冷地で指導する学校のコーチの言葉だ。「雪で外を走れない時期は、校内の廊下を行ったり来たりしています」
沖縄は外を走れない時期はない。だから、日陰が続く短い距離を往復すればいい。近所にある緑豊かな歴史公園「名護城公園」で木に覆われた場所を探し、300m程の坂道をひたすら上り下りした。それを1日に20本こなし、12kmを踏ませた。
それが終わると、次は室内で全身の筋力トレーニングを行う。最後は地域にある屋内プールに場所を移し、1600~2000mを泳がせた。約4時間をかけ、三つの練習を午前中で終わらせた。
「補食を取りながら4時間ずっと運動をするので、トライアスロンをしているイメージです。最後にプールを泳ぐことで筋肉がほぐれ、体も冷やされるから水をがぶ飲みすることによる内臓疲労のリスクもない。徐々にスタミナがつき、3時間ほどで全てのメニューをこなせるようになっていきました。午後はそれぞれが自宅近くでできるだけ涼しい場所を探し、10~15kmを踏む。夏休みが終わる頃には、一人ひとりの体が目に見えて絞れていき、走力も伸びました」
名護高校の女子駅伝部を率いてから、既に3度全国大会に出場していたが、いずれも40位台。しかし、練習内容を見直してから臨んだ2007年に47校中34位に入り、58校が参加した翌2008年は37位に。都道府県ごとで1チームずつの47校に置き換えると、28位という結果だった。
沖縄ならではの指導方法に好感触をつかみ始めたタイミングで、10年間の名護高校勤務が終了。辺土名高校を挟み、2014年に北山高校へ赴任した。より馬力のある男子も指導し始めたことで、今度はスピードの強化にも着手した。
名護高校の頃と同様に、県外の強豪校の練習に参加させてもらいながら、新たなトレーニング方法を模索する日々。その最中、沖縄の長距離史を代表するランナーが帰省した。濱崎達規さんである。