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有森裕子さんの名言「自分を褒めたい」誕生の礎に スポーツ界に生き続ける高石ともやさんの「言葉の力」

「受験生ブルース」などで知られるフォークシンガーの高石ともやさんが17日に亡くなった。82歳だった。昭和を代表する歌手の一人でありながら、スポーツ界とも深い縁があった。国内外のマラソン、トライアスロンの大会に数多く参加。高石さんが残した言葉はスポーツの世界にも影響を与えた。生前、取材した記者が悼む。(文=荻島 弘一)

高石ともやさん(写真は2018年)【写真:産経新聞社】
高石ともやさん(写真は2018年)【写真:産経新聞社】

トライアスロンの大会に数多く参加し競技普及に貢献

「受験生ブルース」などで知られるフォークシンガーの高石ともやさんが17日に亡くなった。82歳だった。昭和を代表する歌手の一人でありながら、スポーツ界とも深い縁があった。国内外のマラソン、トライアスロンの大会に数多く参加。高石さんが残した言葉はスポーツの世界にも影響を与えた。生前、取材した記者が悼む。(文=荻島 弘一)

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 今から39年前の1985年、宮古島は4月というのに暑かった。これから始まるレースが何なのかさえ分からず、スタート地点にいた。第1回宮古島トライアスロン。水泳と自転車とマラソンを一緒にやるという「鉄人レース」。何も分からない新人記者に、デスクからの指令は3つ、「優勝者」「最終完走者」そして「高石ともや」の取材だった。

「受験生ブルース」は知っていたし「ザ・ナターシャ・セブン」も好きだった。とはいえ、そんな有名なフォークシンガーがレースに出ていることは知らなかった。聞けばマラソン愛好者で、日本のトライアスロン発祥の81年第1回皆生大会の優勝者。すでに、レジェンド級だった。

 当時のトライアスロンは超長距離で、スイム3キロ、バイク136キロの後にフルマラソン。そんな過酷なレースの参加者を励ますように、高石さんの歌う「長い道」が流れた。優勝したのは22歳の中山俊行。山本光宏、飯島健二郎、山下光冨、城本徳満と後に日本のトライアスロンを引っ張る若手選手が次々と入り、6位で43歳の高石さんがゴールした。

 高石さんはトライアスロンの魅力をたっぷりと語ってくれた。3つの競技を一緒にやる達成感、ゴールした時に高揚感、仲間が増えることへの幸福感、そんな話だったように記憶する。マラソンからトライアスロンの存在を知り、本場ハワイのアイアンマンレースにも参加。まだ、レースが特別なもので、メディアも「興味本位」だったころのことだ。

 国際トライアスロン連合(ITU)副会長で日本トライアスロン連合(JTU)専務理事の大塚真一郎氏は「あのころの高石さんのポジティブな発信が、トライアスロンの文化を広めることにもつながった。本当にトライアスロンが好きな方でした」と悼み、感謝した。

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荻島 弘一

1960年生まれ。大学卒業後、日刊スポーツ新聞社に入社。スポーツ部記者としてサッカーや水泳、柔道など五輪競技を担当。同部デスク、出版社編集長を経て、06年から編集委員として現場に復帰する。山下・斉藤時代の柔道から五輪新競技のブレイキンまで、昭和、平成、令和と長年に渡って幅広くスポーツの現場を取材した。

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