「スポーツは必ず計画が狂い、結末を知らない」 この社会に求められ、スポーツが根付いた歴史と考察――陸上・為末大
観る側の視点で考えるスポーツ 最大の価値は「必ず計画が狂うこと」
一方で、観る側の視点に立つと、スポーツの意義は大別するとエンタメか、教育などその他か、に分かれます。
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観る側のエンタメの価値としての大きい点は、計画を誰もできないことです。例えば、映画は誰かが脚本を書き、結婚式は誰かが式次第を考える。しかし、スポーツは双方が計画をしても、それぞれの思惑があるから必ず計画が狂う。勝ちたい、こんなプレーをしたいと描いても、相手はそれを崩そうとする。それが観ていて面白い。
誰も結末を知らない。今この瞬間、リアルタイムで動いている面白さです。
もう一つ、スポーツの魅力は人間の感情がむき出しになり、生命が燃えている感じがすること。それを観る人が感じ取るのではないか。大きなところでは五輪や世界大会ですが、運動会であっても子どもが一生懸命走る姿に感じるものがある。
子どもにおける比較ならば、学芸会であっても感じるものはありますが、スポーツは限界の先にリーチしようとしている。演劇でもそれはあるのでしょうが、遠くに行こうとしている、自分の殻を破ろうとしている。人間の体を使って、分かりやすく限界を突破しようとしている。勝ち負けが分かれ、成否がはっきりしていて、ドラマ性も生まれやすいのはスポーツならでは。
一体感もあります。特に五輪になると、日本人は日本の選手を応援する傾向にある。厳密に考えると、観る側とする側はあまり関係ないのに、そこに自分を投影する。属性がはっきりしている。スポーツの場合は国や競技を代表することがあり、自分を投影しやすい仕組みでもある。
観る側も競争の結果はもちろん、その人が何をしようとしていたか、それが成功したかどうか、とても明確に分かります。羽生結弦選手が4回転ジャンプにチャレンジする、陸上で日本人選手が10秒を切れたか、など。それに我々も喜んだり、悔しがったりできる。それはスポーツ以外ではなかなか感じることができない魅力だと感じます。
しかし、スポーツを現代が必要とするとしたら、実はスポーツが現代に合わせたようなところがある気もします。求められるように相互に発展していった。
最近は国対国のスポーツよりプロスポーツの方がマーケット的に大きくなっています。それは戦後から1980年代まで冷戦が続き、国対国という構図にドラマ性があった。しかし、グローバリゼーションで国対国という意識が薄れてくると、今度は都市対都市に変わる。これも社会に必要とされるようにスポーツが変化してきた一つの側面です。
もし社会にスポーツがなかったら、社会はもっと硬直化していたのではないか。かつて国際卓球連盟会長を務めた荻村伊智朗さんは中国、米国に国交がなかった1971年に卓球の世界選手権を日本で開催し、互いの感情を和らがせることで日中の国交正常化に寄与したと言われ、スポーツはそんなこともできるわけです。スポーツは感情増幅装置。資本主義的な感情を増幅すれば、よりギスギスした世界に向かう。でも行き過ぎてしまったら「ほら、みんなお互い同じ人間じゃないか」と理解を求めることもできる。
僕は、スポーツに善悪はないが、使いようによって感情の増幅ができて、それが良い使い方もできるし、もしかしたらナショナリズムを煽って分断を作ることもできるかもしれない、と考えています。
では、続いて「2024年のスポーツ」の現在地を考えてみたいと思います。
(続く)
■為末 大 / Dai Tamesue
元陸上選手、Deportare Partners代表。1978年、広島県生まれ。スプリント種目の世界大会で日本人として初のメダル獲得者。男子400メートルハードルの日本記録保持者(2024年8月現在)。現在はスポーツ事業を行うほか、アスリートとしての学びをまとめた近著『熟達論:人はいつまでも学び、成長できる』を通じて、人間の熟達について探求する。その他、主な著作は『Winning Alone』『諦める力』など。
(THE ANSWER編集部・神原 英彰 / Hideaki Kanbara)