オリンピックの今、問う「なぜ人はスポーツをするのか」 源泉にある人間の欲求とルールが生む面白さ――中京大教授・來田享子
オリンピックの理念「人は互いを尊重し、人間の尊厳は守られる」
彼はスポーツを、戦いではなく相手を知るための、あるいは相手との違いを理解するための、あるいは競い合う相手を敵ではなく、自分を高めてくれる仲間として見ることの出来るツールと考えます。
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競い合うなかでも人間らしさを失わず、国境を越えて人とつながることが出来る。帝国主義の時代下で彼は、人間性を高めるスポーツこそ、自国の教育改革に必要だと考えました。世界中から1か所に人が集まり、スポーツを通じて平等や公平性の意味を考えるオリンピックを構想した意味も、ここに集約されています。
この時代、国境を越えるレベルで人間性を育てようと考えたことは、非常に特殊であり、同時に大変、大事な意味を持っていたのだと思います。
私たちがずっと求めてきた人間性のベースとは、自分が自分らしくいること、つまり「自由」です。
人は常に自由を求めて戦い、社会の仕組みを作ろうとし、希望を見出してきました。
アドルフ・ヒトラーが消えた後、世界人権宣言が採択されたのも、希望の活かし方だったと思います。
また、権力者の歴史ではなく、社会史から紐解くと、酷い支配や悍ましい出来事が起こる暗黒の時代も、人間はずっと遊びが好きでした。なぜなら、自分の心が自由になる瞬間だったからだと思います。
結局のところ人間が命をかけてまで掴み取ろうとする欲望とは「自由」なんです。
オリンピックの理念に「人は互いを尊重し、人間の尊厳は守られる」というものがあります。これは、自由にとって最も大事な価値です。クーベルタンがスポーツこそ人間教育に必要だと考えたのは、恐らく、人間しか持ちえない自由や尊厳といったものをスポーツに感じたのだと思います。
さて、どんなスポーツにも「ルール」があります。ルールを守り、お互いフェアに戦う。これは、人間しかやらない競い合いです。
今よりもずっと野蛮で暴力的な時代に見える古代オリンピックでも、ちょっといい加減ではありますが、彼らなりのルールを持って競技をしていました。
子どもたちの遊びのかけっこですら「よーいどん!」と言ってスタートします。これは、一緒にスタートしようね、という意味ですから、私たちは物心ついた頃から、ルールを設けて、他者とスポーツを楽しんでいるのです。
では、ルールとは何か。それは、私たちが公正と思うことの基準です。そしてその基準を人は常に変化させながら「今」に至ります。