我々はどう生き、死ぬのか「考え続けようではないか」 アスリートの私が記す「人が生きる意味」【田中希実の考えごと】
アスリートもただの人間、ただ少し他と違っているのは…
アスリートは、決して特別な存在ではない。勇気や希望を与えるだけがアスリートでないのはもちろんだ。実に色んなアスリートがいる。実に色んな人がいるのと同じように。アスリートもただの人間なのだから。
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ただ、少し他の人間と違っているのは、アスリートは、人間の最も人間らしい部分に触れてしまっていることだ。アスリートは勝利を常に求めずにいられない。何者にも折り合いがつけられない。死んでもいいから勝ちたいと思うことだってある。そしてそれは、アスリートにとっては、生きたいという願望そのものなのだ。言葉の上では矛盾しているのだが。
その裏腹に、キャリアの中では、なんとなく勝つ時があるしなんとなく負ける時もある。忌むべき勝ちも喜ばしい負けもある。もし、試合の勝敗をアスリートにとっては生き死にに例えられるとしたら、アスリートは多くの人生を、何度も何度も、そのキャリアの中で繰り返していると言える。
いつも、心の中で血を流している。苦しみに満ちた人生を何度も生き、そして何度も死んでいる。その全てが答えであると、アスリート自身は知らず知らずのうちに、常に発見している。ただ、それだけのことであって、意味はない。
我々は、どう生きるか。どう死ぬか。同じ人間という仲間として、考え続けようではないか。
絶対に、人それぞれに、アスリートにとっての競争のような存在があるはずだ。夢中になれるもの。その人自身が、夢中になるに値すると決めたもの。信念。それに伴う苦しみの過程と、その結果。過程にも結果にも特段意味はないはずなのに、驚くべきことに、それらは苦しい時間をやり過ごし、振り返ると必ず存在する。そして、いつか必ず終わりが来る。
スポーツはその縮図ではないだろうか。それを社会に分かりやすく示しているだけではないだろうか。だから、みんなスポーツに魅入ってしまう時だってあるのではないだろうか。スポーツに興味がなく、むしろ恨みに思うような人でも、ふと見かけたときに涙を流すことだって、あるかもしれない。特に理由なく、名前のない感情から溢れる涙を。
アスリート自身が、意味の分からない涙を毎日流しているくらいなのだから。
アスリートは精神的に優れている訳でも、崇高な存在でもなんでもない。
非常に俗っぽい、脆く陳腐な、ただの人間だ。ただその運命に抗い、何者かになろうともがいている。
私がこんな文を書いているのは、運命のただ中にあって、他になす術がないからだ。
先日、パリ五輪の権利をとって初めて、私はパリに向けて走り出せた気がする。しかしそうでなかったとしても、東京の時からずっと、私はオリンピアンだったらしい。でも、オリンピアンとはなんなのか。私は四六時中、オリンピックのために生きているわけではない。私は今日走ることだけを考えていて、明日も走れるかどうかだけを考えていて、4年に一回巡り合えるかどうかという奇跡に、生きている実感を委ねたくなどない。私は、オリンピアンでなくランナーであるはずなのに。
There is so much more to come.
この文を読んで来る震えは、武者震いだろうか。いや、迫り来る運命に対する恐怖に慄いているのだ。
しかし私はこの運命に、最後まで折り合いをつけるつもりは、ない!
○…5000mでパリ五輪代表に内定している田中は、27日開幕の日本選手権(新潟・デンカビッグスワンスタジアム)で同種目と800m、1500mの3種目にエントリーした。1500mは参加標準記録4分02秒50を突破し、優勝すれば代表に即時内定。優勝なら1500mは5連覇、5000mは3連覇で3年連続2冠となる。
(田中希実 / Nozomi Tanaka)