我々はどう生き、死ぬのか「考え続けようではないか」 アスリートの私が記す「人が生きる意味」【田中希実の考えごと】
二十歳で自殺した女子大生の日記を読んで思う「彼女は生きることに真正面から…」
最近、1960年代の学生運動の最中、二十歳で自殺した女子大生の、死の数日前までの日記をまとめた本を読んだ。社会への怒り。自己を出すと反乱分子とみなされる悲しみ。意固地になって探すほどに見つからない確固たる自己。満たされない仲間意識や愛。これらは全て、単なる学生運動による悩みではなく、誰もに覚えがある悩みではないだろうか。
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多分彼女に死ぬつもりなんてなかった。生きていることと死んでいることの境目が無くなってしまったに過ぎないのだと思う。
自分を探し、自分を保つことが、とにかく何か目的をもち、行動することだとしたら、目的さえ分からなくなった時、どうしても目的がもてないくらいこてんぱんにやられた時、行動さえできなくなり、息が詰まり出す。生きてることと死んでること、自分と他者との境目がなくなり、どうしようもなく心細くなってしまうのだろう。
心細さを取り除く為に誰かに助けを求めることさえも己の弱さと糾弾し、たとえ弱くとも、なりふり構わず守るようなものや、守られている安心感がなかったのだろう。彼女は自己防衛に走り過ぎた。感情を理性で押さえつけ、本当は自分なんてものはどこにもないのかもしれないという恐怖の感情から逃れようとした。それだけ生きたかった。何とかして、自分が、自分から守りたいと思える、守るべき自己を見つけたかった。そのためにあえて独りになったのだ。彼女は生きることに真正面から向き合いすぎた。
私がなりふり構わず弱さをさらけ出せるのは、守るべき自己=陸上があるからにすぎないと思う。また、スポーツと同じく、人が生きようとする中で自分の責任のもとに全てを完結することには無理があると思う。だから生と死の境界線も、自己と他者の境界線も、こんなにも危うい。
死んだらおしまいと人は言うだろう。彼女自身も日記の中で散々、死ぬのは負けだとか、死んだら何も考えられなくなると自分に言い聞かせていたけれど、こういう生き方(死に方)があったっていいだろう!と、本当は叫んでいるんだと思う。そもそも彼女は生きている間ずっと演じていた訳だし、死ななければ本当の彼女と言えるノートが世に出ることはなかった。
それなら死んで初めて、彼女は生きられたとさえ言えるのではないだろうか。彼女は生きる意味を、どうしても生きているうちに見つけられなかった。
人間が生きる意味を問うことは、アスリートの存在意義を問うことと同じではないだろうか。
オリンピアンは公人と規定され、スポーツには商業的な価値が見出されている。メディアは観客動員を促し、観客は人間離れしたヒーローを見物にくる。その日のヒーローの心中はどうでも良く、ただ来てくれればいい、見れさえすればいいのだ。実のところアスリートも他の多くの人となんら変わらない存在でいるべきではないだろうか。
答えのない苦しみに苛まれている人がこの世にいっぱいいるのに対し、苦しみに対して勝敗というはっきりした答えをもって確認でき、必ずその過程を見届けてくれる誰かがいることを思うと、アスリートは恵まれ過ぎてはいないだろうか。あるいは反対に、アスリートは社会から付随される価値によって、あまりにも搾取されてはいないだろうか。
私にもし走ることがなかったら、世間のオリンピック騒ぎを疎ましく思う人物だったろう。体育なんて何一つ出来ない子供時代。スポーツなんてむしろ恨みに思うような人物だったろう。
スポーツに注目なんて集まるべきではない。みんな平等に、世の中の一部、社会の歯車であるべきでは?
そして改めて、考えてみる。まさにその社会を構成している、人間とは? その人間たちが、生きる意味とは? 意味のある生とは? 意味のある死とは? 答えのない問いに迷い、熱に浮かされたように喘いでいる人でこの世は溢れている。
誰かのために生き、誰かのために死ぬ。そうしたいと思う人がいる。自分のために生き、自分のために死ぬ。そうしたいと思う人がいる。なんとなく生き、なんとなく死んでいく人がいる。誰かを傷つけながら生き、誰かを傷つけ続けた上で死ぬ。そういう人々もいる。