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松本があったからこそ、今の長野がある 熱狂の“信州ダービー”、Jリーグ30年で到達した理想の風景

北信越リーグ時代の松本で2シーズン、長野で4シーズン所属した土橋宏由樹氏。2011年に引退。長野Uスタジアムでのプレーは叶わなかった【写真:宇都宮徹壱】
北信越リーグ時代の松本で2シーズン、長野で4シーズン所属した土橋宏由樹氏。2011年に引退。長野Uスタジアムでのプレーは叶わなかった【写真:宇都宮徹壱】

願いは「いつかJ1で信州ダービーが見られること」

 現在、フットサルFリーグのボアルース長野でGMを務める土橋宏由樹は、北信越リーグ時代に松本から長野への「禁断の移籍」をしており、両クラブでキャプテンを経験している稀有な存在だ。現役を引退したのは、長野がJFLだった2011年。現役時代の公式戦ラストゴールは、奇しくもアルウィンでのダービーであった。

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「まだ新スタジアムができる前ですから、たとえ優勝してもJ2昇格はないという状況でした。それでも、僕らが山雅より上の順位に立てば、選手の価値も上がるしスタジアム建設の機運も高まるかもしれない。そんな思いでピッチに立っていました」

 この年の長野は2位でフィニッシュしたが、昇格したのは4位の松本。これが契機となって署名運動が起こり、結果としてスタジアム建設の機運が高まったことはすでに述べた。とはいえ、当時の土橋は複雑な心境だったという。

「自分たちよりも下の松本が昇格したこともそうですが、我々選手は1年1年が勝負でしたからね。現に僕自身も、この年で引退しているわけですから。もちろん『昇格できないけど、優勝を目指すぞ』という気持ちで戦ってきたし、そのことで行政を動かす一助になれたのかもしれない。それでも当時は、いろんな感情が入り乱れていましたね」

 土橋は2012年から16年まで、長野のアンバサダーを務めており、その間に長野Uスタジアムには何度も足を運ぶこととなった。完成した時は、4面屋根付きの専用スタジアムに「感動した」と同時に「現役時代にここでプレーしたかった」とも。当然すぎる心境であろう。その上で、かつて「北信越のフィーゴ」と呼ばれた男は、こう語る。

「アルウィンがあったからこそ松本山雅というJリーグを目指すクラブができて、それが長野にも影響を与えたのは間違いないです。逆に言えば長野だけで、あれだけのスタジアムは誕生しなかったでしょうね。カテゴリーがJ3でも、これだけダービーが盛り上がるのは、やっぱり素晴らしいスタジアムがあるからだと思います。だからこそ、いずれはJ1でこの光景を見たいというのが、両方のクラブで信州ダービーを経験した僕の願いです」

 Jリーグは30年の歴史の中で、何を残してきたのか――。全国を巡りながら、答え合わせをする当連載も今回で終了となる。連載中、取材先で何度も印象的な風景を目にしてきたが、その最たるものの1つが、信州ダービーであった。

 1993年当時、長野県民にとってのJリーグは「TVの中の出来事」でしかなかった。それが今では地元でJリーグの試合を楽しむことができ、しかも信州ダービーという「作品」まで生み出すまでに至ったのである。

 そこに私は、何ものにも代えがたい「Jリーグの価値」を見る思いがする。(文中敬称略)

(宇都宮 徹壱 / Tetsuichi Utsunomiya)

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宇都宮 徹壱

1966年生まれ。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」を追う取材活動を展開する。W杯取材は98年フランス大会から継続中。2009年度ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞した『フットボールの犬 欧羅巴1999-2009』(東邦出版)のほか、『サッカーおくのほそ道 Jリーグを目指すクラブ 目指さないクラブ』(カンゼン)、『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)など著書多数。17年から『宇都宮徹壱WM(ウェブマガジン)』を配信している。

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