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恩師オシムに再会するのが「怖かった」 プロ20年目、37歳の水野晃樹が今もJ3で戦い続けるワケ

プロアスリートとして懸命に戦い続けてきた代償

 県リーグでは、フットサル場で練習することもあった。当然、シャワー施設もないから、ボディシートで体を拭くのも慣れた。

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「家族のおかげでプレーを続けられているところはありますね。もう、ダサいとか、格好悪いとか、そういうのは一切ないです。好きなサッカー選手を続けられるなら、それで良くて。でも、その気持ちがなかったら、今こうしてJでプレーすることもなかったわけで」

 やはり、首の皮一枚でつながっているのだ。

 そこで、こう訊ねた。

――18歳の水野晃樹少年にタイムマシンで会えたら、なんと言いますか?

 彼は黙って考え込んだ。

「なんだろうな……『オシムさんを信じて、自分の可能性を信じろ』って感じですかね。当時の自分は、なんも分かってないから。不安には思っていたはずで、本当にプロで通用するか。だから、きっと『ほんと? それだけでほんとにいいの?』って聞き返すと思います(笑)」

 水野は、瞬間を懸命に生きてきた。

 2010年、Jリーグ復帰戦で右膝前十字靭帯を痛め、シーズンを棒に振ったが、J1昇格を経験。2011年に戦列復帰すると、「負けている試合での投入は多かったですけど、同点のアシストをし、流れを作った自負はあります」と本人が回顧するように、柏のJ1優勝に貢献。2012年は出場試合数を増やし、優勝した天皇杯決勝では先発した。

 2013年にはJ1の甲府に移籍し、残留に導いている。セルティックから戻って以降のJ1では最多のリーグ戦19試合出場でキャリアハイとなった。その後は怪我にも悩まされ、1年ごとにチームを変えることになるのだが、小学校時代から壁当てで鍛えた右足のキック精度は衰えず、それが魅力となってプレーする場所が与えられた。

「膝は、冬の朝とか痛みが出るし、階段を降りるのは辛いですね(苦笑)」

 20年間、小さな体でプロ選手を続けてきた代償は払っているつもりだ。

「スロープを使って降りないと、怖くて。膝が抜けて転がり、ガクってなって再発もあるので。あと、正座はできないです。だから、神社やお寺で勝利祈願とかある時は、椅子を置いてもらえている時もあるんですが、正座せざるを得ないときは足の間に長財布や手を挟み込んで、少し腰を浮かせたままにしています。プロアスリートを続けるって、代償はやっぱりありますね。好きなことをしているんだから当然ですが、犠牲を払う覚悟はあるか。いつか一軒家を建てることがあったら、完全バリアフリーでスロープをつけないと。家族に迷惑かかるんで(笑)」

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水野 晃樹

サッカー元日本代表 
1985年9月6日生まれ。静岡県清水市(現・静岡市)出身。清水商業高(現・清水桜が丘高)を卒業後、2004年にジェフユナイテッド市原(現・千葉)に加入。イビチャ・オシム監督の指導の下、2年目の05年に出場機会を増やすと、U-20日本代表にも選出されオランダでのワールドユース(現・U-20W杯)に出場した。07年にはJ1リーグで29試合9得点の活躍を見せ、日本代表にもデビュー。08年1月、セルティックへ初の海外移籍を果たすが怪我もあり不本意な結果に。10年6月に柏レイソルへ移籍して国内復帰を果たすと、8クラブを渡り歩き、今季からJ3のいわてグルージャ盛岡に所属している。

小宮 良之

1972年生まれ。大学卒業後にスペインのバルセロナに渡り、スポーツライターに。トリノ五輪、ドイツW杯を現地取材後、2006年から日本に拠点を移す。アスリートと心を通わすインタビューに定評があり、『導かれし者』(角川文庫)、『アンチ・ドロップアウト』(集英社)など多くの著書がある。2018年に『ラストシュート 絆を忘れない』(角川文庫)で小説家としてもデビュー。少年少女の熱い生き方を描き、重松清氏の賞賛を受けた。2020年12月には『氷上のフェニックス』(角川文庫)を上梓。

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