「僕らには責務がある」― 日本サッカーの礎築いた故・岡野俊一郎氏の言葉
まさに「八面六臂」の働き、自ら仕掛けて話題を提供
協会通りに大きなビルが建った今では考えられないことだが、岡野さんの活動ぶりは、文字通り「八面六臂」だった。ヘッドコーチ、通訳、マネージャー、情報収集、戦術分析、渡航手続き、渉外、広報、解説、番組企画制作……、すべてを1人でこなしていた。当時30歳代前半で「若かったから出来たんでしょうね」と振り返る。
残念ながら最近の広報は、取材を規制することが仕事だと考える傾向が強いが、岡野さんは自ら仕掛けてメディアが飛びつき易い話題を提供した。1964年東京五輪で、日本はアルゼンチンを破る快挙を成し遂げた。まだ五輪がアマチュアの祭典だった時代だが、アルゼンチンには後にプロも含めたフル代表としてワールドカップでプレーする選手も含まれていた。この試合で圧倒的なパフォーマンスを見せたのが、駿足ウィンガーの杉山隆一氏。試合を終えると、岡野さんはアルゼンチン関係者の輪の中に飛び込んでいった。
「どうだ杉山はプロでも出来るか」
「十分に出来る」
「20万ドルくらいの価値はあるかな……」
「まあ、そうだな」
1ドルが365円で固定されていた時代なので、20万ドルといえば、プロ野球でも最高レベルだった。日本のメディアは即座に飛びつき、それから杉山氏には「黄金の足」との形容がつくようになり、その足には保険がかけられた。