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250枚のFAXでカメルーンとの試合が実現 1人の高校生を決意させた日韓W杯の経験

県内2チーム目のJリーグ入りを目指すヴェルスパ大分【写真:宇都宮徹壱】
県内2チーム目のJリーグ入りを目指すヴェルスパ大分【写真:宇都宮徹壱】

W杯の盛り上げを受け継ぐために大分でHOYO FCが誕生

 ドイツ人指導者のシェーファーとは対照的に、カメルーンの選手たちは中津江村の人々や大分の子供たちとの交流に積極的だった。そんななか、初めて間近で見るアフリカのプロフットボーラーに、生口少年も興味津々。「特に印象的だったのが、彼らの筋肉の付き方でしたね。足首がシュッとしているんだけど、ふくらはぎがバンって張っている感じ」と振り返る。

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 試合そのものは、どうだったのか。

「試合中は、それほどガチではなかったんですけど、パスのスピードが凄かった。それとリーチが長いので、ぜんぜんボールに届かなかったです。試合のあと『チェンジ、チェンジ』って言って、ユニフォーム交換してもらいました。僕は(サロモン・)オレンべ、友だちは(マルク=ビビアン・)フォエでした。香水の匂いが凄かったので、母から『他の洗濯物と一緒に洗えないよ!』と言われたことを覚えています(笑)」

 余談ながら、オレンベは2010年にギリシャのAELにて30歳で現役引退。フォエは2003年、カメルーン代表としてコンフェデレーションズカップに出場中、ピッチ上で突然倒れ、そのまま帰らぬ人となった。享年28歳。所属していたマンチェスター・シティは、彼の背番号23を永久欠番としている。

 W杯が終わった翌年、生口は大分を出て大阪商業大学に進学。同じ2003年、大分でのW杯の盛り上げを受け継ごうと、豊洋精工という企業が中心となって「HOYO FC」という草サッカーチームを設立する。HOYO FCは県4部を振り出しに、毎年のように昇格。「九州リーグのさらに上」を目指すようになるのは、県1部になった2007年のことで、この年に大商大を卒業した生口が入団している。

「チームを設立したのが、高校と大学の先輩のお父さんだったんですよ。それで僕も大学卒業後、大分に戻って社員選手としてチームに加わることになりました。県リーグ時代は、グラウンド整備から水汲みから、すべて自分たちでやっていましたね。審判も持ち回りだったので、資格を取りました。そうした裏方仕事をしながらプレーを続けていたことが、間違いなく今のGMの仕事に生きていると思います」

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宇都宮 徹壱

1966年生まれ。東京藝術大学大学院美術研究科修了後、TV制作会社勤務を経て97年にベオグラードで「写真家宣言」。以後、国内外で「文化としてのフットボール」を追う取材活動を展開する。W杯取材は98年フランス大会から継続中。2009年度ミズノスポーツライター賞最優秀賞を受賞した『フットボールの犬 欧羅巴1999-2009』(東邦出版)のほか、『サッカーおくのほそ道 Jリーグを目指すクラブ 目指さないクラブ』(カンゼン)、『蹴日本紀行 47都道府県フットボールのある風景』(エクスナレッジ)など著書多数。17年から『宇都宮徹壱WM(ウェブマガジン)』を配信している。

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