就職3か月でトルシエの通訳へ ダバディの運命を変えた“Jリーグ愛”と「根拠なき自信」
日本代表初合宿で見た夢のような光景
Jリーグにすっかり魅了されたダバディ氏は、フランスに帰国後も当時ケーブルテレビで放送されていた試合の映像をチェックし、テレビゲームを通じて選手の名前も覚えていく。「マイナーなチームでも誰がいて、ディフェンスはこうで、システムはこうでと話せた」というほどのマニアックなJリーグの知識は、後に生かされることになる。
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大学で日本語を学んだダバディ氏は、日本での就職を熱望。大使館やフランスの高級ブランドなどで働く可能性を模索した末に、雑誌編集者として1998年に再来日を果たす。
「その時はこの出版社でしばらくやっていくと思っていたし、2年、3年でもし契約が切れても、また日本で就職活動をしようかなと漠然と考えていました」
だが仕事が決まり、日本に来てからわずか3か月後、運命の歯車が回り始める。
ダバディ氏は再来日を果たす直前、98年6月に開幕したフランスW杯で日本の新聞社のアルバイトをしていた。現地に来ていた日本人記者のサポート役をしていたが、その時に親しくなった1人の記者が、W杯後に日本代表監督に就任したフィリップ・トルシエの通訳を日本サッカー協会が探しているとの情報を、すでに出版社で働き始めていたダバディ氏に伝えたのだ。
「話をもらった時、僕は今、出版社の社員だし、通訳の仕事もしたことがない。でもなぜか根拠のない自信があって、とにかく面接くらいは受けてみようと。それでダメ元で履歴書を出し、12月に面接へ行ったんです」
その席上で熱く語った“Jリーグ愛”は、面接官だった日本サッカー協会の大仁邦彌技術委員長(当時)を驚かせたという。無事に面接をパスしたダバディ氏は、99年1月に福島県のJヴィレッジで行われる日本代表合宿にテストを兼ねて呼ばれる。当然、本業は雑誌の編集者。入社したばかりの会社だったが、事情を説明して2週間の休みをもらい、日本代表監督の通訳としての第一歩を踏み出した。
「一言で言えば……本当に夢のようでした。当時はまだトルシエさんが完全に世代交代をしていない時だったので、私がテレビゲームの中で目にしていた一番上手い選手のカズさんとか、98年フランス・ワールドカップに出場した相馬(直樹)さん、井原(正巳)さん、秋田(豊)さん、中山(雅史)さんなど、その時のメンバーがほとんどいました。だから、すごく不思議な感覚でしたね」