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2つの東京五輪支えた77歳男性のボランティア物語「人のお世話にならず人のお世話したい」

1964年東京五輪でイスラエル選手団を先導する村岡亮道さん【写真:本人提供】
1964年東京五輪でイスラエル選手団を先導する村岡亮道さん【写真:本人提供】

コロナで三転四転したボランティア活動の中身とは?

 64年東京五輪の開会式で飛んだブルーインパルスの使用機は「F-86F」と呼ばれる機体だった。選手団の先頭に整列していた村岡さんはその姿を直接、眺めることはできなかったが、国立競技場のロイヤルボックス席の広いガラスに映るブルーインパルスの姿をはっきりと覚えている。「いい天気だったから本当にきれいな輪、五輪のマークが秋の青空に映えて見えた」。ブルーインパルスとの個人的な縁が、五輪の記憶を心に刻んでいた。

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 もう1つの動機は自身の健康を維持するモチベーションにするためだった。「2013年に招致が決まって、健康管理のためにボランティアを頑張ろうと」。元気で7年後を迎えるための目標を掲げた。

 そして、迎えた2度目の東京五輪。コロナ禍により1年延期となり、村岡さんの活動内容は三転四転したという。「無観客というのが大きな影響を与えました」。最初のオファーは国際オリンピック委員会(IOC)ファミリーに関する業務で、「IOCメンバーたちが宿泊するホテルがあって、そこに宿泊する人や尋ねて来る人のエスコートやアテンド役でした」。

 しかし、コロナの影響で来日人数が減り、国立競技場での別の活動へと転換され、「イベントサービス」担当となった。その後、無観客が正式決定したため、みたび活動内容は変わり、施設や通路の出入りを通行許可証明書によって管理する「アクセスコントロール」と呼ばれる業務に2日間、携わった。

 続いて「プレスオペレーション」のオファーがあり、村岡さんは6日間の活動を希望した。現在はスタジアム4階にある記者(プレス)席のサポートに従事している。他のセクションの人数が足りないと、その都度、アシストにも回っている。

 面白かったのは、取材エリアのひとつ「ミックスゾーン」での選手の動線・安全を確保する活動だった。「選手がミックスゾーンを通り抜けるとき、選手とその付き添いの人以外の通過者をバシッと止める仕事です」。国立競技場では陸上競技が行われ、時には金メダリストも誘導する大事な仕事だ。短いアシストの半日に、3人の金メダリストの通過を見守った。

 また、これらに先駆け、7月23日の開会式前にはリハーサルにも2回参加し、選手の動きをシュミレーションする役割を担った。

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