弱小校と新設校で…超難題「3年で甲子園出場」2度達成 センバツ話題校・エナジック監督の信条は「時にはホラ吹きも…」

選手たちに伝染 エナジックでも好循環生まれる
美里工を最後に、40年以上に渡る公立校勤務を終えた神谷氏。「転勤がなく、自分の色を出しやすいから」という理由で、2022年4月に創部したエナジックの監督に就いた。
ここでも「3年以内に甲子園に出場する」という高い目標を掲げたが、美里工の時との明確な違いは、頭に「創部から」という一言が加わることだ。一から、どころか、ゼロからのスタートである。OBもいない。「地域の人たちも当初は『学校ができるのか』くらいの受け止めで、初めの頃は『少し騒がしくなったね』という声もありました」と振り返る。
それでも、動かないと人は着いて来ない。まずは選手を集めるため、スカウトで全県をまわった。「新しい学校でノーサイン野球をやる」「一緒にチャレンジしよう」。志に共感してくれる選手がチラホラと出始め、自然に囲まれた田舎の新設校に1期生16人が入学し、15人が野球部に入部した。その中には、2024年のプロ野球ドラフト会議で西武から6位指名を受けた、本島中部の読谷村出身の龍山暖捕手もいた。
学校を運営する大城学園は、医療・健康機器の開発メーカー「エナジックグループ」の創業者で、瀬嵩地区が生まれ故郷である大城博成氏が理事長を務める。これまでも沖縄で社会人野球チームやゴルフアカデミーなどを運営し、沖縄のスポーツ発展に尽力してきた実績がある。神谷氏の志に応え、開設したエナジックでも室内練習場や栄養管理の行き届いた学生寮を作るなどして環境を整えていった。
ノーサイン野球を形にするのには2年近くを要したが、1期生が中心となり、沖縄球界で急速に台頭し始めると、周囲の反応も変わっていった。「少しずつ地域の方たちも応援してくれるようになり、今では『甲子園まで応援に行くぞ』と声を掛けてくれます」。過疎化が進む場所なだけに、夢に向かって一生懸命に汗を流す学生の姿は、地域に元気を与えているのだろう。
改めて「創部から」という、より難易度が高いエナジックでも「3年以内に甲子園出場」を掲げた理由を聞いた。
「美里工の時もそうでしたが、監督自らが強い気持ちで先頭に立ってやらないと、まわりは応援してくれません。そうじゃないと、甲子園には絶対に届かない。自分に言い聞かせ、発破をかける意味でも言葉にし続けました」
その気概は選手にも伝染した。砂川誠吾主将に「創部から3年以内の甲子園出場という目標は、いつ頃から実現できると感じたか」と問うと、こう答えた。
「入学した頃はノーサイン野球のやり方が全く分かりませんでした。でも、だんだん自分たちの形ができてきて、準優勝した夏の2回戦で沖縄尚学にコールド勝ちしたあたりから、目標達成に向けた強みになると感じました」
美里工の時と同様に、環境と実力が伴い、そこに以前から掲げていた高い目標が合致した時、選手たちはより明確に達成までの道筋を描くことができるようになる。だから、本番で臆することなく力を発揮することができる。エナジックでも好循環が生まれ、全く同じ3年目というタイミングでセンバツ出場を決めた。
神谷氏にとっては、まだ学校ができたばかりで、部も立ち上がっていない状態から共に歴史の一歩目を踏み出してくれた1期生15人に対しては、より特別な想いがある。
「何もない状態の時に1期生が来てくれて、いろんな面で頑張ってくれました。大会で好成績を残しただけでなく、勉強面でも資格をいっぱい取って、生活態度も良く、後輩たちの模範になってくれました。その後ろ姿を見て、今の最上級生である2期生が大きく成長してここまで来ることができました」
冒頭で記した「涙」には、そんな想いが込められていた。
エナジックにとって初の甲子園となるセンバツまで、あと2か月弱。神谷氏は「まずは初戦突破。一戦一戦を全力で」と言うが、選手たちの口からは「目標は全国制覇」という言葉が多く聞かれる。夢は、言葉にするからこそ実現する。指揮官と共に、その格言を体現して見せた選手たちは、自分たちの可能性に制限をかけることはない。
(長嶺 真輝 / Maki Nagamine)