弱小校と新設校で…超難題「3年で甲子園出場」2度達成 センバツ話題校・エナジック監督の信条は「時にはホラ吹きも…」

「ホラを吹かないと…」美里工で得た成功体験
その舞台は2011年に赴任した美里工だ。本島中部の沖縄市に立地する。当時、同校は県大会で1、2回戦負けが当たり前のような弱小チームで、過去10年を振り返ってみても春夏秋の三つの県大会でベスト8入りは一度もなかった。2008年に浦添商を夏の甲子園ベスト4に導き、さらなる高みを目指していた神谷氏にとっては、また一からのスタートを意味していた。
1979年に高校野球の指導者となり、それが6校目の勤務先だった。公立の教員である限り、転勤は付きもの。「やるしかない」。覚悟を決め、再び聖地に立つための挑戦に足を踏み出した。
「低迷が続き、練習施設もあまり整っていない状態だったので、まずは学校関係者やOB会、地域の皆さんを巻き込まないといけない。だから、強い意志を示す必要がありました。『3年以内に甲子園に行くので、協力してください』と言ってまわったんです」
中でも敏感に反応してくれたのは、OB会だった。沖縄が本土復帰する前の1967年に琉球政府中部産業技術学校として設置された同校は、それまで甲子園の土を踏んだことはなかった。夏の全国選手権沖縄大会で唯一決勝に進んだ1994年も、その後の甲子園2回戦で強豪の横浜に4ー2で勝利して番狂せを起こすことになる那覇商に1-7で敗れた。
夢の舞台に届かない悔しさを長年積み重ねてきたからこそ、悲願達成に挑む現役生を応援したいという想いは強かった。
「OB会が相当資金集めに奔走してくれて、校庭に大きなネットを張ってくれたり、バットやボールを寄付してくれたりしました。とても心強かったです」。電気関係に強いOBがグラウンドに照明を設置し、用具をしまうコンテナも持ち込んだ。
甲子園ベスト4の経歴を持つ監督が就任し、練習環境も整っていけば、選手も集まってくるのは自然な流れだろう。弱小校が一転、部員100人を超える大所帯のチームに。活気が出てくるに連れ、荒唐無稽にも思えた「3年以内に甲子園出場」という目標が、選手たちの中でも現実味を帯び始め、練習に取り組む姿勢がさらに上向いていくという好循環が生まれた。
そして、神谷氏が赴任してから3年目の2013年夏の沖縄大会で1994年以来となる準優勝を達成。またもあと一歩のところで甲子園出場は阻まれたが、その年の県秋季大会で頂点に立ち、迎えた九州大会で準優勝を飾って初の甲子園出場を決めた。
「確信」をもって、神谷氏が言う。
「強い気持ちを持って、自分を鼓舞するためにも、時にはホラを吹くことも必要です。もちろん、その結果として達成できないことはありますが、それに向けて本気で頑張る姿は見てくれる人がいます。目標は口にすることで、多くの人がついて来てくれるようになる。夢は言葉にすることが非常に大事なんです」