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沖縄球界に異変起こした謎の高校 興南・沖縄尚学の2強破って創部3年目で県王者「エナジックスポーツ」とは

沖縄県春季大会で優勝し、ベンチから飛び出すエナジックの選手たち【写真:長嶺真輝】
沖縄県春季大会で優勝し、ベンチから飛び出すエナジックの選手たち【写真:長嶺真輝】

「自分の色を出しやすい」神谷監督が新鋭校を選んだ理由

 神谷氏が初代監督に就任する前、美里工を最後に定年退職を目前にしていた自身のもとには県内外から多くのオファーが寄せられたという。その一つがエナジック。熟考の末、選んだ理由は「チームをゼロから作り上げることに魅力を感じたし、以前のような転勤もなくて自分の色を出しやすいから」。開拓精神をくすぐられた。

 1期生として入部したのは1年生15人。選手たちと共に、胸に「Enagic」と書かれた真新しい青色基調のユニホームに袖を通し、決意した。「3年以内に甲子園に出場する」。壮大な目標を実現するために創部当初から注力したのが「ノーサイン野球」だ。

 神谷氏は、公立高校時代から「全くサインを出さない」という本格的なノーサイン野球に取り組んでいたわけではない。なぜ新鋭校で取り入れようと考えたのか。この選択の根源を探るには、名将と称されるまでの長年に及ぶキャリアを辿る必要がある。

 子どもの頃から野球少年だった。まだ沖縄が米国統治下にあった1968年、興南が当時の県勢最高成績となる夏の甲子園ベスト4に入り、沖縄が「興南旋風」に沸いた時は中学1年生。興南の現監督である我喜屋優氏(当時主将)を中心に、地元球児が聖地で躍動する姿は輝いて見えた。「体育の先生になって高校野球の監督になり、甲子園に行きたい」。将来の夢が決まった。

 琉球大学教育学部を卒業後、1979年に当時沖縄出身の選手を多く入学させていた宮崎県・都城東の野球部長に就任し、指導歴をスタート。1981年に帰省して以降は監督として各校の指揮を執り、1990年に着任した中部商では春季、秋季大会で頂点に立つなど強豪の一角としての地位を固めた。

 しかし、時は沖縄水産と沖縄尚学の2強時代。両校には全県から有望な選手が集中していた。沖縄高校野球の指導者の第一人者である栽弘義監督率いる沖縄水産は1990年、91年に2年連続で夏の甲子園準優勝を飾り、沖縄尚学は1999年にセンバツを制して県勢初の日本一に。1997年に夏の甲子園で4強入りした浦添商も高い壁だった。

 それでも中部商は2001年の夏の県大会で初めて決勝に駒を進めた。が、同年のセンバツに21世紀枠で出場して4強入りの快進撃を見せた宜野座の勢いに呑まれ、0対3で完敗。翌春に浦添商へ転勤し、その年の夏に元日本ハムの糸数敬作投手擁する中部商は初めて甲子園の土を踏んだ。

 浦添商でも陰の歩みは続く。夏の決勝に進む度、沖縄尚学や興南にことごとく跳ね返された。「ずっと、あと一歩が届かなかった」。誰が呼んだか、いつしか沖縄でこう呼ばれるようになった。

 悲運の闘将――。

 それでも10代の頃から抱き続けた夢は変わらない。だから諦めない。自身の野球哲学を磨く作業はやめなかった。

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