原辰徳監督から受けた「人としての教育」 巨人で裏方を経験、荻原満が学生に伝える一流の教え
今年から東北工業大硬式野球部のヘッドコーチ(HC)に就任した荻原満氏(57歳)。仙台商高、東海大を経て巨人に入団し、1988年から92年まで投手として5年間プレーした。現役引退後も巨人に残り、打撃投手やマネージャーを歴任。荻原氏は「プロの世界で選手、裏方を経験したからこそ、今こうやって教えられる」と胸を張る。後編では、その濃密な野球人生に迫る。(取材・文=川浪 康太郎)
東北工業大学硬式野球部・荻原満HCインタビュー後編
今年から東北工業大硬式野球部のヘッドコーチ(HC)に就任した荻原満氏(57歳)。仙台商高、東海大を経て巨人に入団し、1988年から92年まで投手として5年間プレーした。現役引退後も巨人に残り、打撃投手やマネージャーを歴任。荻原氏は「プロの世界で選手、裏方を経験したからこそ、今こうやって教えられる」と胸を張る。後編では、その濃密な野球人生に迫る。(取材・文=川浪 康太郎)
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小学3年生の頃に野球を始めて以来、投手一筋。中学3年生の時、当時の担任教師から進路希望を問われ、「仙商、東海大に行って、ジャイアンツに入る」と応えた。教師には「行けっこないじゃん」と笑われたが、荻原は後に有言実行することとなる。
仙台育英高や東北高からも誘いが来ていたが、「公立高校で甲子園に行きたい」との思いで仙台商へ。「野球人生で一番きつかった」という過酷な練習に必死に食らいつき、高校3年生の夏はエースとして聖地の土を踏んだ。プロ志望が強固なものとなったのは高校生の時。さらなるレベルアップのため、故郷を離れ、縦縞のユニホームを見て以前から憧れを抱いていた東海大に進学した。
大学では左腕から放たれる140キロ前後の直球と抜群のコントロールを武器に活躍し、リーグ通算28勝をマークした。大学3年生の冬に左肘を故障し手術したものの、翌年、ドラフト外で巨人に入団。中学3年時の担任教師とは祝勝会を開き、「軽率なことを言うんじゃなかった」と謝られたという。
プロ1年目の春季キャンプを終えた直後、野球留学のためアメリカへ渡る。球団からは「中継ぎ投手として育てたい」との要望を伝えられ、1Aのチームに帯同して約70試合に登板した。時間をかけずに肩を作る方法を学んだほか、右打者に有効なスクリューを3か月かけて習得するなど、実り多き半年間に。帰国後は2軍で好成績を残し、徐々に手応えをつかんでいった。
しかし当時の巨人は投手の層が厚く、また3年目にはまたしても肘を手術したこともあり、1軍での出番はなかなか巡ってこなかった。1軍デビューを果たしたのは5年目のシーズン。広島市民球場での広島戦に救援登板し、大久保博元とバッテリーを組んで1失点を喫するも1イニングを投げきった。
結局このシーズンはデビュー戦を含む2試合の登板。1軍で投げることの喜びを味わった一方、「俺には厳しいな。もう終わりだな」と選手としての限界も感じていた。ブルペンで並んで投球した槙原寛己や斎藤雅樹、桑田真澄らの球は、スピードもキレもコントロールも段違いだった。日本プロ野球の頂点を目の当たりにした荻原は、ユニホームを脱ぐ決断をする。