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「なぜ日本人?」の空気を実感 セルビア代表の喜熨斗勝史コーチ、選手指導で大切にすることは?

英語を勉強してきたことで広がったキャリア

 自分が「一生サッカーに関わっていきたい」と思ったきっかけは、幼少期の経験にある。子供の頃に両親が離婚。サッカーでは小学生で東京都代表に入り、高校は名門の帝京に進むことになった。しかし金銭的な事情により、帝京を辞めて都立高校に通うことになり、そこで選手としては大きな挫折を味わった。

 それでも、やっぱりサッカーに関わりたいと強く思い続けたのは、自分には父親がいなかったため、サッカーから人生を学んだ部分が大きかったからだ。例えばチームワークの重要性だったり、ピッチ上で自分を主張すること、マリーシア(狡猾さ)など、人生を生きていく上での大切な部分をサッカーという競技そのものから教わった気持ちがあるので、当時から恩返しをしたい気持ちが強く、将来は指導者になりたいと思っていた。

 そして指導者をやるなら、常に今の自分がいる環境より、もう一歩踏み込んでいきたいと思っていた。リスクを負ってでも新しい可能性を追い求め続けてきたからこそ、ピクシーと出会い、中国にも行き、今はセルビア代表でコーチになった。

 プロの指導者を目指した30年前に、自分がセルビア代表のコーチになることはもちろん想像できていなかったが、今につながる“準備”は着々と進めてきた。

 母親が英語の先生だったこともあり、幼少期から「英語は大事」と教わり、ずっと勉強をしてきた。指導者の道に進んでから、それが最初に生かされたのは1999年のセレッソ大阪の時。監督としてベルギー人のレネ・デザイェレがやってきて、僕が通訳兼コーチを務めることになった。

 彼が英語で指示する内容を、日本語に訳して選手たちに伝える。曖昧な言葉では伝えられないため、よりサッカーを細かく指導するスキルがこの時に身についたように思う。

 その後もいくつかのクラブでコーチを務める中で、英語を話せて、欧州のサッカーを理解できる日本人コーチをピクシーが探しているという話があり、関係者が自分のことを紹介してくれたことで2008年から名古屋グランパスで仕事ができることになった。本当に一つひとつの積み重ねで、キャリアがどんどん繋がってきた。

 初めてピクシーと仕事をした時、当時の僕に与えられた時間は3分。そこから少しずつ信頼を得ながら時間を伸ばし、技術や戦術も指導できるようになった。どのタイミングで、自分がピクシーの信頼を得られたのかは正直分からない。ただ、言われたことをきっちりとやってきたことで今がある。

 2015年から中国の広州富力では、ヘッドコーチとして同じ時間を過ごし、トップチームの監督代行やアカデミーのテクニカルディレクターという経験も積むことができた。

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喜熨斗 勝史

サッカーセルビア代表コーチ 
1964年10月6日生まれ。東京都出身。日本体育大学を卒業後、高校で教員を務めながら東京大学大学院総合文化研究科に入学。在学中からベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)ユースでフィジカルコーチを務めると、97年に教員を退職しトップチームのコーチとなる。その後セレッソ大阪、浦和レッズ、大宮アルディージャ、横浜FCを渡り歩き、04年からは三浦知良のパーソナルコーチを務める。08年に名古屋グランパスに加入してドラガン・ストイコビッチ監督の信頼を得ると、15年からは中国の広州富力、21年からはセルビア代表のコーチに招かれる。日本人としては初めて、欧州の代表チームのスタッフとして22年カタールW杯の舞台に立った。
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