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「こんなに怒ったジーコは初めてだった」 “常勝軍団”鹿島を生んだ25年前の大敗

AFCチャンピオンズリーグ決勝の第1戦に2-0で勝利し、通算20冠を目前にした鹿島アントラーズだが、やはりクラブに勝ち癖をつけたのはジーコ(現・鹿島テクニカルディレクター)だった。

“常勝軍団”鹿島を作り上げたジーコ氏【写真:Getty Images】
“常勝軍団”鹿島を作り上げたジーコ氏【写真:Getty Images】

鹿島をJリーグ屈指の強豪に育て上げたジーコの負けず嫌い

「こんなに怒ったジーコは初めてだった」――鈴木満(鹿島アントラーズ強化部長)

 AFCチャンピオンズリーグ決勝の第1戦に2-0で勝利し、通算20冠を目前にした鹿島アントラーズだが、やはりクラブに勝ち癖をつけたのはジーコ(現・鹿島テクニカルディレクター)だった。

 鹿島は土壇場でJリーグのオリジナル10に滑り込んだチームなので、どうしても強化は遅れがちだった。それでも開幕前年の1992年ナビスコカップ(現・ルヴァンカップ)ではベスト4に入る健闘を見せて周囲を驚かせたが、結局ジーコにとっては「負け」だった。

「ジーコは、どんな大会でも優勝以外は納得しない。だから他の選手たちも、優勝しない限り喜ぶわけにはいかなかった」

 鹿島の名物ゼネラルマネジャーである鈴木満も、そう述懐している。

 何よりジーコの負けず嫌いを物語るのが、1993年の開幕直前に行われた欧州遠征で対戦したクロアチア代表戦後の激高だった。

 そもそもJクラブが突然欧州の強豪国代表と試合が組めてしまったのも、ジーコが交渉に乗り出したからだが、5年後のフランス・ワールドカップで3位に入るクロアチアは、ほぼベストメンバーを揃えて真剣そのものだった。一方鹿島は、まだプロデビュー前。力の差は歴然としていた。しかも鹿島がアルシンドのゴールで先制してしまったことで、一層クロアチアの闘争心に火をつけた。その後は完全にワンサイドの展開が続き、終わってみれば鹿島は8失点を喫していた。

 ジーコの通訳を務めた鈴木國弘は言う。

「戦えるだけでも十分にラッキーな相手ですよ。敵うわけがない」

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加部 究

1958年生まれ。大学卒業後、スポーツ新聞社に勤めるが86年メキシコW杯を観戦するために3年で退社。その後フリーランスのスポーツライターに転身し、W杯は7回現地取材した。育成年代にも造詣が深く、多くの指導者と親交が深い。指導者、選手ら約150人にロングインタビューを実施。長男は元Jリーガーの加部未蘭。最近、選手主体のボトムアップ方式で部活に取り組む堀越高校サッカー部のノンフィクション『毎日の部活が高校生活一番の宝物』(竹書房)を上梓。『日本サッカー戦記~青銅の時代から新世紀へ』『サッカー通訳戦記』『それでも「美談」になる高校サッカーの非常識』(いずれもカンゼン)、『大和魂のモダンサッカー』『サッカー移民』(ともに双葉社)、『祝祭』(小学館文庫)など著書多数。

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