「五輪金メダルと東大」を生んだ柔道部 弱かった大野将平の才能を見抜いた恩師の神髄
インターハイで騒然となった会場「あれ、誰よ? 大野の弟だってよ?」
とはいえ、当時の大野にとっては大きな試練だった。高校に入ると、柔道の団体戦では無差別の闘いを想定しなければならない。組み合わせによっては、大野の体格で100キロ超級の巨漢と対峙しなければならないのだ。名門を率いる主将としてのプレッシャーは想像を絶するものだった。
「相手のしんがりに130キロ、140キロの技のキレる高校一流の選手がいたとしたら、自分は体の半分しかないからどうぞって道を譲るのかという話なわけですよ、単純に言ったら。そうすると、いや譲りませんってウチのキャプテンは言うわけですよね。教えとして、そういう作り方を常々してきたので。じゃあ、どうあるべきかということは彼らは考えますよね。
全部引き分けで大将に回ってきたとき、どういう覚悟で相手と向き合うか。それは中学生の思春期だったら、大変な刺激を受けたと思いますね。『やばい、この俺がキャプテンかと。俺だって、順位的には4番目か5番目だろ』と思ったと思いますよ、将平は。『じゃあどうする?』と言ったら、わらにもすがる思いで、技を試してみたんだと思うんですよ」
こうして、血のにじむような努力の末に、内股、大外刈りを徐々に習得。結果もついてくるようになる。高校2年生のとき、全国高校総体(インターハイ)の個人戦で優勝した。「あれ、誰よ? 大野の弟だってよ?」。当時柔道家としては兄のほうが有名で、会場は騒然となった。
講道学舎で寝食をともにした持田氏は「技」の部分を伸ばしながら、大野の「心」や「体」の成長も促した。
「心」について言い聞かせたのが、相手を敬うことの大切さだった。
「勝った側と、負けた側は精神状態としては、当然、両極にあるわけですよね。ただ、そんな中で、必ずしも勝っておごるなということは教えましたね。なぜかというと、次に自分が同じ立場にいるかもしれない。そして相手を思いやる幅こそが、お前たちががむしゃらに修行している理由だ、ということも言い続けました。本当に強い男を求めるなら優しくあれという言葉を言ってきたつもりです。勝った選手を必ずしも私が強いとは思わなかった。逆に負けた人間に強いなって思い知らされたことが多くて」
例えば、疑惑の判定と言われたシドニー五輪の篠原信一VSダビド・ドゥイエ戦を教材に、「篠原が『自らが弱いから負けた』ということを言ってくれたことで日本の威信が保たれた」と大野に話したこともある。消化できない敗戦から、何を学ぶか。また、勝者はどうあるべきか。いつしか大野自身もその答えを探すようになった。
リオ五輪でも派手なガッツポーズをしないことが脚光を浴び、中学3年生向け道徳の教科書に掲載された。侍のようなたたずまいが日本人の心を打った。「心の部分というのは成熟度っていうことにつながる。人間は勝ったときは舞い上がるし、負ければヘコむ。当たり前なわけですけど、浮き沈みそのものこそが心が整ってないっていうこと」。東京五輪決戦前の7月初め、大野から相談を受けた持田氏は「強さは優しさだ」と改めてメッセージを送っている。