慶大卒・宮脇花綸を助けたフェンシングの「フ」の字も知らない友達 五輪と別軸の「大学」という居場所
文武両道を実現するために「隙間時間」を活用
異なる角度からフェンシングの楽しさを知った。それと同時に、学生の本分である学業にしっかりと取り組んだのも忘れられない思い出だ。
「学業との両立はすごく大変だった記憶があります。当時から1年の約3分の1を海外で過ごしていたので、遠征から帰ってきて、空港からそのまま大学に行ってレポートを提出するような生活でした。授業に出席しないと評価を得られない科目もあったけれど、周りの協力を得ながらトライし続けたことに価値があるのかなと。五輪出場を目指している過程で、平日もトレーニングに時間を割く日は多かったのですが、興味を持っている授業はとても楽しみでした。高校までの国語や数学といった勉強とは違いますし、私は人類学や倫理学を一般教養で選択していましたね」
10代から世界を股にかけて戦ってきた宮脇。海外遠征の連続で目が回るような日常を過ごしながらも勉学に励んだ。文武両道を実現するための工夫は“移動時間”だった。
「海外遠征の場合、飛行機に乗っている時間は10時間以上あったりしたので、その時間はしっかりと勉強できました。日本にいなくても勉強する時間はいくらでも作り出せますし、隙間時間のようなものを活用して勉強していました。それに大学の授業は解き方を学ぶものだけではなく、自分の考えをまとめるという方向性も多かった。答えが出ないものを自分なりに考えるのも大学の勉強だったので、そういったところと向き合えていた感覚はあります」
フェンサー宮脇花綸は一日にして成らず。あらためて大学4年間は彼女にとって、どのような時間だったのか。
「日本代表選手ではない居場所があったのは、自分にとってすごく幸せだったと思います。私は大学1年生の時にリオ五輪に落選するという挫折を味わいました。でもフェンシングの『フ』の字も知らない友だちがいたり、フェンシング以外でも学んで楽しいと思える居場所が大学にあった。五輪を目指すこととは別軸で、大学のリーグ戦をスポーツとして楽しむ仲間がいたのは本当にありがたかった。日本代表・宮脇花綸ではない居場所があったのは、20歳前後の私にとって大きな助けになりました」
5歳から始めたフェンシング。ステージを上げていくたびにプレッシャーは大きくなっていった。思い通りに事が運ばず、結果を出せずにもがき苦しんだ日もある。そんな重圧から少しだけ解放される場所があったとすれば……。
大学スポーツは、宮脇花綸にとっての大切な“サードプレイス”だったのかもしれない。
(藤井雅彦 / Masahiko Fujii)