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フランスはなぜ柔道大国になったのか 普及の裏に一人の日本人…「これが柔道なのか」衝撃だった稽古初日

弟子のフランス画家、ピエール・ルッセル(講道館柔道四段)による安部をモデルにしたリトグラフ【写真:田中博子さん提供】
弟子のフランス画家、ピエール・ルッセル(講道館柔道四段)による安部をモデルにしたリトグラフ【写真:田中博子さん提供】

「川石式柔道というのは本物の柔道じゃないんじゃないか」

 当時六段の安部が、講道館からフランス行きを指示されたのは1951年のことだった。

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 秋田出身の安部は群馬県立前橋中学(現・前橋高校)で柔道に出会うとすぐにのめり込み、41年、東京高等師範学校(現・筑波大)に進学。兵役を免除される立場だったものの、学徒動員により仲間が次々と戦地へ飛び立つ姿を見て、自らも兵役を志願。陸軍特別操縦見習士官となり、朝鮮に配属され、パイロットとして特攻隊の訓練を受けていたことを明かしている。

 終戦後、講道館の南郷次郎館長(当時)の秘書を務めたが、1年あまりで退職。大阪で教員となったものの、米軍統治下で学校で柔道を教えることは禁じられていたため、町道場に通って鍛錬し、大会に出場していた。

「道場の試合なんか出ると、破格に強いわけですよね」

 安部の強さは堺市警察署長の目に留まり、警察本部に招かれ、柔道指導者となる。安部が講道館から渡仏を打診されたのは、ちょうどこの頃だった。

 その舞台裏について、津村氏は川石メソッドがきっかけだったと明かす。

「川石式柔道がフランスで盛んに行われるようになったのですが、フランス人から『川石式柔道というのは本物の柔道じゃないんじゃないか』という疑問が起こってくるわけなんですね。というのは、技の名称を簡単にしたと同時に、川石さんはあまり難しい理論の説明はしなかったようなんですね」

 どういうことなのだろうか。

「柔道では『崩し』『作り』『掛け』と言って、その順番で相手を崩して、相手と自分の体を作って、そして技を掛けるという3段階で指導する。特に相手を作り自分を作る、技を掛ける体勢を作るということが柔道では大事だと指導されていたんですけども、そういった難しいことを教えるより、まず掛け、すなわち形を覚えさせたほうが興味を持つだろうという考え方から、川石さんはもっぱらその難しい理論の部分を教えないで、形だけを教えていたようなんです。で、目の高いフランス人からすると、どうもこれは本当の柔道じゃないぞ……ということで、本当の柔道を習いたいという人たちがいて、講道館に誰か指導者を送ってほしいと依頼があったわけです」

 講道館に日本の柔道家の派遣を求めたのは、パリから遠く離れたトゥールーズの修道館柔道クラブだった。講道館で人選した結果、安部に白羽の矢が立ったというわけだ。

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