ハンドボール宮崎大輔が明かす 日本人が異国で認められる秘訣「感情は全部捨てた」
近藤 俊哉●写真 Photo by Toshiya Kondo
孤独の中で戦い続けた海外生活、あだ名は「クレヨンしんちゃん」「たまごっち」
相次ぐケガと、自分の感覚とズレてしまうプレー……。だが「周り」が、宮﨑に引退を踏みとどまらせた。アスリート仲間、同級生、そして子供たち。彼らから受けた刺激によって、宮﨑はもう一度自分にネジを巻いた。
彼は「刺激」を肥やしにして、成長を遂げてきたアスリートである。
あのときもそうだった。
中東勢のチームに有利なレフェリングをする「中東の笛」で注目を集めた北京五輪予選。異例のやり直しとなったアジア予選や世界最終予選でも勝てず、五輪切符をつかめなかった。宮﨑は2009年、入団テストからスペイン1部のアルコベンダスに入団する。しかし、チームメイトから認めてもらえない日々が続いた。
「ハンドボールで日本は弱小国。だからチームメイトは日本のハンドボールなんて知らなかったし、だから練習をしても、パスが回ってこないんです。一番ボールが回ってくるはずの真ん中にいるのに飛ばされてしまう。僕からしたらあり得ない。あだ名も“クレヨンしんちゃん”とか“たまごっち”とか付けられて、最初の1か月間は孤独との戦いでもありましたね」
宮﨑の心に火がついた。チームメイトが自分を理解するよりも、まずは自分がチームメイトを理解しようとした。
「僕は日本の選手を代表してここに来ているんだ、ということ。後に続こうとする人たちのことを考えたらこのままじゃ日本に帰れません。だから恥ずかしいとか、納得いかないとか、そういう感情は全部捨てました。言葉は喋れなくてもジェスチャーがあると考えて、伝えたいことはその場で伝えるようにしました。チームメイトを一人ひとりランチに誘ったり、バーに誘われてないのに勝手についていったり……。少しずつみんなとコミュニケーションを取っていくことで、段々と状況が変わっていきました」