“スポンサー危機”から4度目の五輪へ― 東京五輪で羽根田卓也が抱く恩返しの思い
「五輪に2度出て、でもその競技が続けられなくなる国なんだと」
食生活もそうだ。高校1年時にはこんな思い出があるという。
「海外でのシニアの世界選手権の時です。出店があったのでハンバーガーを食べていた。当時のイタリアかドイツかの世界チャンピオンが突然、隣にやってきて『それは俺たちが食べるものじゃないよ』と言われた。次の日からすぐにやめました。ジャンクフード、ハンバーガー、ポテトチップス、チョコとか甘いもの、炭酸やオレンジジュースなども全部断った。高校3年間全く取らないようにしました」
ストイックさを象徴するようなエピソードだが、続きがある。
「スロバキアに行ったら、みんな平気で甘いものを取っていた。コーラも飲むし、お菓子も食べるし……。でもそれでも強いってことは強さの秘訣はそこじゃないんだなと」
しっかりとオチまでつけてくれたが、心構えの話だ。自らをきっちりと律し、鋼のような肉体を作り上げ、世界のトップと渡り合えるだけの下地を作っていった。
初の五輪だった2008年の北京では予選14位。4年後のロンドン五輪では7位入賞。着実なステップアップを遂げたが思わぬ事態を迎える。競技を続けられるかどうかの瀬戸際に直面した。活動を支援してくれるスポンサーが見つからなかったからだ。10社以上に手書きの手紙で熱意を示したが、ほとんどの企業は門前払いだったという。
「大変だったといえば大変だった。一応、五輪に2度出て、ロンドンでは入賞もした。でもその競技が続けられなくなる国なんだと。スロバキアとはスポーツ選手の地位というか、その違いを凄く感じた。資料を作って電話しているときの企業の対応だったり、あぁ、日本では胸を張ってスポーツ選手ですと言えないのかなと。
自分で資料を作って、支援をお願いしようと思った会社に対して自分で資料を作って、とにかく雇ってもらって、まず会社員として働かせてもらって、その中のどこかで支援、合宿、遠征のサポートをしていただけないかと、お願いから入ってもダメ。話すら聞いてもらえなかったです」