改めて考えるオリンピックの意味 「メダルの数」で評価される限り、日本のスポーツ文化は成熟しない――中京大教授・來田享子
五輪は五輪である限り、発言する自由を絶対に守っていく必要性
一方で、スポーツやオリンピックの持つナショナリズムや国際政治は、これらの理念と合わない現実をうまく覆い隠してしまう力があり、その仮面をどうしても剥がせないという問題も抱えています。
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オリンピックという大会は、スポーツを手掛かりによりよい人間社会と世界平和にどう交換できるのかを、世界中で一緒に考えましょう、という大会です。
しかし、例えば14年のソチ大会(冬季)ではロシアの同性愛禁止法、08年、22年(冬季)の北京大会ではチベット問題やウイグル人への人権侵害、女性テニス選手に対する性加害問題、今大会はイスラエル・ハマス戦闘と、近年も議論は絶えません。
2023年、オリンピック憲章の改訂が行われました。そのなかの一つが、根本原則1です。オリンピズムの生き方を定義する一文の最後は以前、「~普遍的で根本的な倫理規範の尊重を基盤とする」と記されていた。そこに、「国際的に認知されている人権に乗っ取り、オリンピックムーブメントの権限の範囲内で」普遍的で根本的な倫理規範の尊重を基盤とする、というカッコ内の言葉が追加されたのです。
本来国際オリンピック委員会(IOC)は、開催国や参加国が「自分たちの人権のスタンダードだ」と主張しても、「あなたたちの人権などという話ではない。人権は世界基準のもので普遍的なものでしょう」と、常に押し返さなくてはいけません。しかし、この改訂には、「権限の範囲内で」という限定付きで言わざるを得ない、世界情勢に対する苦しさを感じさせます。
それでも、オリンピックムーブメントのなかだけでも、国際基準の人権を何とか守りたい、という意志が見えてくる。
オリンピックは国別対抗の単なるスポーツ大会ではありません。社会改革や教育改革の文脈で開催されるものです。そして、人間社会と世界平和にどう貢献できるのか。それを一緒に考えましょう、という大会です。
ですから、オリンピックはオリンピックである限り、発言する自由を絶対に守っていかなくてはいけません。守れなかったときにIOCは、最も批判されるべきだと思います。
さて、スポーツを語るとき、よく「結果が大事」といいますが、スポーツほど結果だけ見てもわかりにくいものはありません。
観客が勝敗に至るまでのドラマを観たいのは、結果だけでは語れない「何か」がそこにあるからです。スコアだけ知っても、何も面白くはないですよね。
スポーツというのは肉体を通じて、物事の多面性を最も考えさせてくれるものです。勝ったけれど目の前に負けた相手がいるとか。勝ったけれどものすごく脚が痛いとか。「こんな勝ち方ではないはずだったのに」とか、「負けたけどめっちゃ良かったな!」とか。
二項対立では絶対に済まされない世界観みたいなものが、 練習のたび、1試合終わるたびに、肌で感じたり、見えてきたりする。それがスポーツの素晴らしさです。