松本があったからこそ、今の長野がある 熱狂の“信州ダービー”、Jリーグ30年で到達した理想の風景
「松本よりも順位が上なのに」昇格できずに足踏み
青木が「最初は草サッカーチームだった」と語ったのは、決して大袈裟な表現ではない。前身の長野エルザSCは、県立長野工業高校や長野南高校サッカー部を中心とした、北信地域の高校OBが集まってできたチーム。1997年に長野県リーグから北信越リーグに昇格している。のちに宿命のライバルとなる山雅クラブは、町田によれば当時は「雲の上の存在」だったそうだ。
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クラブのターニングポイントとなったのは、県リーグに降格した2000年。上を目指すのか、それとも地域リーグにとどまるのかを決めかねていたが、降格を契機に「上を目指す」方向性を明確に打ち出した。町田は語る。
「2000年に入ると、山雅が停滞期に入るんですね。そうした中、ウチは2002年に北信越リーグで初優勝して地域決勝に出場したんですけど、結果は散々でした。そこからさらに火が点いて、2006年にはJFLを目指すべく元イラン代表監督のバドゥ・ビエイラを招聘。さらに2007年には、クラブ名をAC長野パルセイロとしました」
この頃から、長野と松本による信州ダービーは、県外のサッカーファンの間でも知られるようになる。北信越リーグでもJFLでも、両者はほぼ互角の戦いを見せていた。しかし昇格となると、常に松本が先行。しかも、長野のほうが順位は上だったにもかかわらず、である。
とりわけ屈辱的だったのが、2011年のJFL。2位の長野は昇格できなかったのに、4位の松本は一足先にJ2に昇格していった。明暗を分けたものは何かといえば、それはJリーグの基準を満たすスタジアムの有無である。再び、町田。
「2011年も12年も2位で、順位では昇格の条件を満たしていても、スタジアムがないから上がれない。そうなると、頑張っている選手に説明がつかないわけですよ。もちろん、行政への働きかけはしました。そこで求められたのが『なぜサッカー専用なのか?』とか『本当に市民が求めているのか?』という疑問に対する明確な答えでした」
この時に動いたのが長野のサポーターだった。やはりスタジアム問題を抱えていた、FC町田ゼルビアのサポーターからノウハウを伝授してもらい、大規模な署名活動を展開。およそ8万6000人分の署名を集めて長野市役所に提出した。長野市の人口が約38万人ということを思えば、そのインパクトは絶大だった。最後は、当時の鷲沢正一市長の英断もあり、新スタジアム建設に力強いゴーサインが発せられることとなる。
かくして2015年、長野Uスタジアムはオープンする。ちなみに、国内でのサッカー専用スタジアムの開業は、2005年のフクダ電子アリーナ以来10年ぶりのこと。芝生の専門家として、スタジアム建設に助言を行っていた青木は、意外な事実を教えてくれた。
「実は長野Uには、ゼネコン大手5社がプロポーザルに参加したんです。『ここからスタジアムの新しい流れが始まる』という予感があったんでしょう。ちなみに長野Uは、スプリンクラーの一斉散水ができる日本で初めてのスタジアムなんです。その後、京都の新スタ(サンガスタジアム by KYOCERA)でも採用されましたが、今後はスタンダードになっていくでしょうね」