名古屋の「赤」から岐阜の「緑」に変えた2人の情熱 Jリーグ昇格へ「命懸けだった」熱狂の4年間
岐阜にJクラブを作った男たちの「その後」とクラブカラーの意味
名古屋でピクシーの存在が忘れられつつあるように、岐阜でも森山と吉田のストーリーを覚えている人はめっきり減ってしまった。ある意味、仕方のないことなのかもしれない。
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クラブというものは本来、人間の寿命よりも長く続くものであり、だからこそ属人化されるものではない。しかし一方で、こう言いたくもなる。「もう少し歴史を語り継いでいくべきではないか?」と。Jリーグ30周年を迎える中、あらためてそう考える次第だ。
ピクシーが歴史的な妙技を魅せた29年前の市原戦、長良川には2万4157人もの観客が詰めかけていた。今回、私が取材した岩手戦の入場者数は3829人。当時のJリーグの人気ぶり、そしてカテゴリーの違いを考えれば、入場者数が6分の1になってしまうのも仕方のないことかもしれない。それでも、Jリーグ開幕時に選手やサポーターだった人々の情熱によって、彼らの故郷にJクラブが誕生した──。それは何者にも覆すことはできない、歴史的事実である。
FC岐阜のJクラブ化を促した、森山と吉田のその後の軌跡は対照的だ。
森山は岐阜を離れると、2009年にS級ライセンスを取得。浦和学院高校サッカー部監督を経て、2019年にJFLのFCマルヤス岡崎のチームダイレクター兼任で選手登録する(出場機会はなし)。当人としては「愛知県第2のJクラブ」誕生を目指していたようだが、親会社の反応が鈍かった上に現場での役割もなくなり、2021年で岡崎を去ることとなった。現在は、なでしこリーグ1部のラブリッジ名古屋で監督を務めている。
「岐阜であれ岡崎であれ名古屋であれ、あるいは男子であれ女子であれ、スポーツで街を元気にするという目標に変わりはないです。いろんな土地で、いろんなカテゴリーのクラブと関わってきましたが、目指す方向性はどんどん研ぎ澄まされている感じですね。今は試合結果も大事だけど、働きながらプレーしている選手たちがサッカーを通じて、人間的な成長を促しながら社会に還元していく責任があると思っています」
一方の吉田は、スポンサーとして関わっているものの、クラブに物申すことはない。試合は観るが、サッカーとの関わりは限定的で、むしろ馬主として地方競馬界では知られた存在である。
「名前は同じFC岐阜ですけれど、僕がいた時とはまったく別物のクラブですよ。でも今は、それでいいと思っています。僕が起業した時『岐阜の人なら誰もが知っている会社にしよう』という目標がありました。ある意味、それは実現できたんじゃないかって思っています」
最後に、トリビア的な余談を1つ。FC岐阜のクラブカラーを緑にしたのは、森山と吉田である。森山によれば「地元の山と川、特に川の深い部分の緑色に岐阜らしさを感じたんです」。一方の吉田は「ドラゴンズの青、グランパスの赤、これらに対抗できる色ということで緑を選びました」と語っている。かつて、岐阜県民が応援するのは、ドラゴンズかグランパス。それが今では、ドラゴンズとFC岐阜になっているそうだ。
かつてピクシーが妙技を披露した長良川は、今ではFC岐阜の緑がすっかり浸透して久しい。(文中敬称略)
(宇都宮 徹壱 / Tetsuichi Utsunomiya)