灰色→青に変わった川崎のイメージ 転機から22年、「逃げられる街」を染めたフロンターレの色
1993年5月15日、国立競技場での「ヴェルディ川崎VS横浜マリノス」で幕を開けたJリーグは今年、開幕30周年を迎えた。国内初のプロサッカーリーグとして発足、数々の名勝負やスター選手を生み出しながら成長し、93年に10クラブでスタートしたリーグは、今や3部制となり41都道府県の60クラブが参加するまでになった。この30年で日本サッカーのレベルが向上したのはもちろん、「Jリーグ百年構想」の理念の下に各クラブが地域密着を実現。ホームタウンの住民・行政・企業が三位一体となり、これまでプロスポーツが存在しなかった地域の風景も確実に変えてきた。
連載・地方創生から見た「Jリーグ30周年」第2回、川崎【前編】
1993年5月15日、国立競技場での「ヴェルディ川崎VS横浜マリノス」で幕を開けたJリーグは今年、開幕30周年を迎えた。国内初のプロサッカーリーグとして発足、数々の名勝負やスター選手を生み出しながら成長し、93年に10クラブでスタートしたリーグは、今や3部制となり41都道府県の60クラブが参加するまでになった。この30年で日本サッカーのレベルが向上したのはもちろん、「Jリーグ百年構想」の理念の下に各クラブが地域密着を実現。ホームタウンの住民・行政・企業が三位一体となり、これまでプロスポーツが存在しなかった地域の風景も確実に変えてきた。
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長年にわたって全国津々浦々のクラブを取材してきた写真家でノンフィクションライターの宇都宮徹壱氏が、2023年という節目の年にピッチ内だけに限らない価値を探し求めていく連載、「地方創生から見た『Jリーグ30周年』」。第2回は川崎を訪問。前編では地元に長く住み、行政側としてクラブに関わってきた人物に、地域密着に力を入れてきた川崎フロンターレが変えてきたものについて語ってもらった。(取材・文=宇都宮 徹壱)
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かつての王者は苦しんでいた。
3月4日、等々力陸上競技場で行われたJ1リーグ第3節、川崎フロンターレVS湘南ベルマーレ。ホームでの今季初勝利を目指していた川崎だったが、ジェジエウが負傷交代した直後の19分に失点。その後もじりじりした展開が続くなか、81分に途中出場の瀬川祐輔が古巣相手に同点ゴールを挙げた。試合は1-1で終了。その後も等々力ではなかなか勝てず、リーグ戦でのホーム初勝利は、本稿執筆時点(4月19日)ではまだ果たされていない。
「新たな過渡期ということで、クラブも大変な時期を迎えているとは思います。それでも、初優勝した2017年以降、ずっとフロンターレには楽しませてもらっています」
そう語る砂田慎治は、1947年生まれの76歳。家族ぐるみの熱心なフロンターレファンである。富山の高岡から大学進学で上京し、卒業後にそれまで縁もゆかりもなかった川崎市に就職。副市長の地位まで上り詰め、今はフロンターレの顧問を務める。その間、半世紀以上にわたり、地域の変化を見つめてきた。
「結婚した一時期を除いて、ずっと川崎市中原区の住民です(笑)。私が来た頃は高度成長期で、川崎市の人口や企業がどんどん増えて、税収も右肩上がりの時代でした。しかし反面、ギャンブル施設や風俗店が増えて、公害問題も深刻。市のイメージは、必ずしも良くはなかったんです」
砂田によれば、当時の川崎のイメージカラーは「グレー」。臨海部の工場から排出される煙により、空が灰色だったことに由来していたのだろう。
実は川崎にはもう1つ、ネガティブなイメージがつきまとっていた。それは、プロスポーツから「逃げられる街」というものであった。
1957年から77年までの21シーズン、大洋ホエールズ(現・横浜DeNAベイスターズ)が川崎球場をフランチャイズ。その後、彼らが横浜市に移転すると、1978年にはロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)がやって来た。しかし彼らも1991年、14シーズンを過ごした川崎から撤退して千葉に移転してしまう。
次に川崎市を本拠としたのは、野球ではなくサッカー、球団ではなくクラブ、そしてフランチャイズではなくホームタウンとしてであった。1993年に開幕したJリーグのオリジナル10の1つであり、当時は全国区の人気を誇ったヴェルディ川崎(現・東京ヴェルディ)である。