パリ五輪と教師、柔道・老野祐平が追う2つの夢 大学での飛躍を支えた中学恩師の教え
高校2年の福島合宿で小野卓志監督と運命的な出会い
中学時代に苦労した最大の要因は、体の成長スピードが周囲の同学年の選手に比べて遅かったことだ。体格差のある相手に力負けする試合が多く、時には「高校生VS中学生」のように見える対戦もあったという。それでも成長期にある選手に対し、宮浦監督は階級を落とすための減量をさせず、とにかく食べて体重を増加させ、同時にウエイトトレーニングも一切させなかった。
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「まずは技術で土台をしっかり作ろうという先生でした。やっぱり早くに筋肉をつけてしまうと力頼みの柔道になってしまう。技術力が追いつかないまま手の力だけで勝負していると、中学時代は勝てていても、いずれ筋力に差がなくなると勝てなくなるというのが先生の教えの中にはありました」
悔しい思いを抱えながらも、技術を磨いた日々。長崎日大高校への進学後、少しずつ体が成長し始め、高校2年からは81キロ級で出場するが「全然体重は足りていなかったんです。当時は74キロとかで出ていたので、7キロ分のパワーの差を感じることはありました」と苦い日々を振り返る。それでも中学時代から「磨いてきた技術が生きてきた」ことも実感していた。
雌伏の時を過ごすなかで、老野は運命的な出会いを果たす。高校2年の2月に行った福島遠征。そこで長崎日大高の松本太一監督と親交のあった、当時は筑波大学柔道部を指導していた小野卓志監督と会い、声をかけられる。
「『来年の4月から帝京平成大学で柔道部を設立するんだけど、来てくれないかな?』と言われて。最初に聞いた時はやっぱり不安じゃないですか。新設される柔道部ですし。でも当時の自分は結果を何も出していなかったし、小野先生の言葉からも来てほしいという熱を凄く感じたので、先生を信じて行こうと思い帝京平成大に決めました」
進路を決めたのは、高校3年になってすぐの時期。柔道部の主将を務め、最後の全国高校総体(インターハイ)では2位という結果も残した。
大学進学が近づくにつれ、「先輩がいない環境で強くなれるのか」という声も老野の耳には届いた。新設される帝京平成大の男子柔道部には、1年生17人が入部。小野監督からは、入学前から「祐平を主将にするから」と言われていた。
「やっぱり1期生でしたからね。主将として自分がやらなければいけないっていう気持ちは、高校の時よりすごく強かったと思います。柔道部全体をまとめることはあまりやれていないと思うんですけど(笑)、試合で自分が結果を残さなければいけないという自覚や、結果を残さなければ自分が仲間に言う権利がなくなるっていう不安は常にありました」