250枚のFAXでカメルーンとの試合が実現 1人の高校生を決意させた日韓W杯の経験
2002年日韓ワールドカップ(W杯)の開催から、今年で20周年を迎えた。日本列島に空前のサッカーブームを巻き起こした世界最大級の祭典は、日本のスポーツ界に何を遺したのか。「THE ANSWER」では20年前の開催期間に合わせて、5月31日から6月30日までの1か月間、「日韓W杯、20年後のレガシー」と題した特集記事を連日掲載。当時の日本代表メンバーや関係者に話を聞き、自国開催のW杯が国内スポーツ界に与えた影響について多角的な視点から迫る。
「日韓W杯、20年後のレガシー」#32 2002年大会の記憶を訪ねて~「大分」中編
2002年日韓ワールドカップ(W杯)の開催から、今年で20周年を迎えた。日本列島に空前のサッカーブームを巻き起こした世界最大級の祭典は、日本のスポーツ界に何を遺したのか。「THE ANSWER」では20年前の開催期間に合わせて、5月31日から6月30日までの1か月間、「日韓W杯、20年後のレガシー」と題した特集記事を連日掲載。当時の日本代表メンバーや関係者に話を聞き、自国開催のW杯が国内スポーツ界に与えた影響について多角的な視点から迫る。
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史上初の2か国共催となった2002年大会、日本でW杯の熱狂に包まれた開催地は10か所だった。多くのスタジアムが新設され、大会後にはJリーグをはじめ各地域のサッカーの中心地となったが、そこにはどんな“文化”が育まれたのか。日頃から全国津々浦々の地域クラブを取材する写真家でノンフィクションライターの宇都宮徹壱氏が、日韓W杯から20年が経過した今、4か所の開催地を巡る短期連載。「大分」の中編では、カメルーン代表のキャンプ地として注目を集めた中津江村で、W杯初戦の4日前に行われた公開練習試合を取り上げる。カメルーン代表の到着が大幅に遅れたことで開催が危ぶまれた一戦だが、多くの人の尽力によって実現。そしてこの試合に出場した地元高校生の1人は、その後のサッカー人生を変える強烈な経験をして、数年後に大分へ戻り、現在はクラブのGMとして奮闘している。(取材・文=宇都宮 徹壱)
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2002年に日本と韓国で開催されたワールドカップ(W杯)。大会直前、最も日本人の琴線に触れることとなったのが、大分県の中津江村でキャンプを張った「不屈のライオン」ことカメルーン代表である。
5日遅れでキャンプ地に到着したことが、当時のメディアで大きく注目を集めたが、実はもう一つ、関係者をやきもきさせた出来事があった。それは、カメルーン代表と地元の高校生との公開練習試合。当時の新聞記事から引用しよう。
《村の人口とほぼ同じ約千三百人の観客が待ち受ける第二グラウンドにカメルーンチームが到着すると、大きな拍手が沸き上がった。当初は合同練習の予定だったが、急きょ練習試合に変更されるというカメルーン流のおまけがついた。(中略)試合は後半、シェーファー監督も自ら出場するというサービス精神満々。見事な動きでシュートを決め、観客をうならせた。》(5月28日/西日本新聞)
公開練習試合が行われたのは5月27日16時。カメルーンの初戦は6月1日だったので、わずか4日前に実施されたことになる。しかも、すったもんだの末の開催。今も同スポーツセンターに勤務する、津江みちは回想する。
「シェーファー監督は、最初『選手が怪我をしたら困るのでやらない』って言っていたんです。でも、グラウンドには相当な数のお客さんが詰めかけていて、対戦相手の高校生も到着していました。最後は地元の保育園の子供たちが、エスコートキッズになって選手たちの手を引いて、その流れで試合してくれたという感じです。それでも主力のメンバーは出場せず、サブメンバーやコーチや監督までもが試合に出ていましたね」