厳格な父が名ストライカーを育てる? 点取り屋の“執念”を植えつけた男と男の関係性
大久保嘉人を負けず嫌いにした父の厳しさ
「男は周りのせいにするもんじゃない。怪我を言い訳にしたら、『おまえの集中力が欠けているからそうなるんだ』と教えた。チームが負けたら、『おまえがゴールできなかったからだ』と叱った」
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厳しい父は言う。4歳の時、息子が右足大腿骨骨折という大怪我を負った時、入院しているベッドで、「この機会に左足を鍛えろ」と座ったままの息子にボールを投げ、蹴り返させた逸話は有名である。半ば冗談のようだが、現役時代ビジャの左足シュートは強力な武器になっていた。
「息子は試合に負けて泣いたことはない。いつも怒っていたよ。ゴールを外してもそうだ。とても機嫌が悪くなった。あいつにとって、ゴールをして勝つことが人生そのものだった。息子はそうやって、懸命にボールを蹴っていた。子供の頃、あいつは誰にもサッカーを教わっていない。いつも自分でどうやったら上手くなるかを考えていた。練習に励み、悩んで成長していったんだ」
炭鉱の町では、雨が降ると石炭が水に染み出し、シューズもユニフォームも真っ黒になった。ビジャは17歳まで、誰も気にかけないような小さな町のクラブで、「ちびでやせ過ぎ」と入団を断られながら、トッププレーヤーになる未来を信じていた。
そこに浮かぶのは執念だ。
Jリーグ史上最多得点を更新した大久保嘉人も、父の影響を強く受けていた。
「もし、サッカー選手になっとらんかったら、後を継いどったかもしれん」
福岡の郊外で生まれ育った大久保は言う。父がトラックの運転手だった。
「砂利を運搬するトラックで、助手席に乗るといろいろ連れて行ってもらえて。“動く家”みたいやった。休日には釣りに出かけて、重りや餌のつけ方を教えてもらって。マラドーナやペレのプレー集のビデオも買ってもらい、ずっと研究しとった。小倉にある大きなスポーツ店では、スパイクも買ってもらって」
父との結びつきは強かったが、甘えるような関係ではなかった。
「オトンもオカンも勝負事には厳しくて。負けず嫌いやったからね。『負けるなら、サッカーなんてやめろ』という感じで。でも、だからこそ、俺も負けず嫌いになった。サッカーでは何があっても負けられないという思いがしみ込んでいる。悔しいから、負けるのは誰にでも」